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『空ばかり見ていた』を観てきたよ。【愛してる篇】

 突然ですが、私は17歳の冬に部室の中で物心がつきました。

 どうか詩的な表現だと思わないで欲しいのだけれど、この物言いだとなかなか難しいかもしれない。でも実際そうだったから。

 いや、実際には、というより本当は、あれは16歳の冬のことだったのだ。ということが最近発覚した。数字をうまく認識できない人間なので、たぶん高校一年生の冬が何歳だったのかを最初に計算するときに間違えたのだと思う。もしくは希望的観測でものを言う悪癖によって間違えたのかも。

 つまり、17歳の冬に物心がついた、というのは私の情感なのだ。

 だって何が物事が起きるのは、17歳でなくてはいけないと思うのだ。17歳、さもなくば14歳でないと格好がつかない。高校二年生。そうだ、やっぱりあの時、私は高校二年生だったのかもしれない。きっとそうに違いない。
 ナオヤくんだって17歳だった。


 と、ここで今回の本題にちょっとだけ入るという寸法なのだ。ナオヤくんというのは、もちろん『シブヤから遠く離れて』のナオヤくんだ。岩松了さんが書いて、蜷川幸雄さんが演出をした舞台に出てくる主人公の男の子――。

 ここまで書いて、今確認のために『シブヤから遠く離れて』の戯曲をひっくり返したのだけれど、どこにもナオヤくんが17歳とは書いていなかった。もしかしたら見落としただけかもしれないけれど、でもそういえば、年齢を数字でいうなんていうこと、岩松作品であるかな。単に私がそれを見た時17歳だったのかも。いやはや。はてさて。

 ともかく私は岩松了さんの『シブヤから遠く離れて』を年に100日くらいは読み返しているのである。年に何回、と回数で言わないのは、その日その日で、読み返す場所が違うからだ。岩松さんの本は永久に読み返していられる。どのシーンでも。突然。

 それで今回は岩松さん作演出の『空ばかり見ていた』のお話です。

 と、その前に、やっぱり私が17歳だったころの話を少ししよう。つまり、実際には16歳だったとき。冬の部室でのお話。

 詳しいことは本筋に関係がないので、別の機会でお話するとして省きますが、私は運動部に入っていました。みなさん、どうですか。運動部、好きですか? 私は苦手です。というか、勝ち負けが関係するものは全て嫌いなのですが、それはさておき、運動部のさらに団体競技のしかも学生の「共有の強制」というものがなかなかどうして気持ちが悪い。むろん偏見ですが。

 一緒にがんばろう、とか、目標を決めてそれに向かって、とか、みんながみんなのために、とか、エトセトラ、エトセトラ。くわばらくわばら。

 しかし、体格に恵まれ、運動神経がそれほど悪くなく、かつ全てのことを断れない性格だった私は、強い勧誘を断れず中学で運動部に入り、引退試合を持ち前のメンタルの弱さにより自分のミスで終わらせ、やっと自由になれると思った高校でもまた同じ過ちを犯し、運動部に入ったわけです。

 かくかくしかじか。

 で、辞めようとしたら、囲まれたんですね。囲まれるというのはちょっと誇張があるかも。実際には私たちは円になっていたわけだから、何か特定の者を囲むという感じではなかった。確かに。

 けれど、円になって、その円を作っている点の一つ一つが特定の点を向いていたら、それはもうその点を取り囲んでいると言っても良いと思うんですよね、私は。
 それで、その円を作るたくさんの点がひとつの点を眺めて何をしているのかというと、言葉を待っているわけです。言葉。言葉ね。なんの言葉か。
 一つの点が部活を辞める「理由」です。

 理由、理由、理由。

 ハムレットよろしく三回は唱えないといけない。本当は五億回くらい唱えたいところだけれど我慢します。でも、それくらい手を変え品を変え求めてきたわけです。円が。理由を。

 私も最初のうちは、しどろもどろになって答えてみたりしましたね。

「やっぱりみんな、いろいろと環境が違うわけだから」とかって。

 で、糾弾されましたね。「家庭環境は関係ない!」とか。「どうしてちゃんと話してくれないんだ!」とか。「そうやって自分の殻に閉じこもって!」とかって。

 けれど私は「環境」という言葉を、決してそういう意味では使ってはいませんでした。つまり、夏が駄目だったりセロリが好きだったりするでしょう? と、それくらいのことを言いたかったわけです。でも、そうは思ってくれなかった。

 今考えれば、確かに。

 第一、それは部活を辞める理由にはなっていないんですね。なぜ部活を辞めるのか、という問いに対する答えが「いろいろと環境が違うから」って。一見話が通じているようにも聞こえるけれど、全く通じていないですよね。環境が違うから? で、何? っていう話です。確かに。でもそんなような意味の通じない言葉しか出てこなかった。

 私は、未だに、この時の事について考えていて、たぶん永久に考え続けることになるのだろうけれど、今では恐らくこういうことだったのではないか、という解説らしきものを持っている。たぶん、恐らく――。

 彼らは「部活を辞める」という行動を起こすに至るには何か「理由」があるはずだ、と思っていて、それを共有させてくれと言っていたのだ。

 もちろん、私には「部活を辞める」という行動を起こすに至る「感情のエネルギーみたいなもの」は存在していた。

 そこが違う。
 分かりますかね? この違い。

 どうしても抽象的な話になってしまいますが、つまり「部活を辞める」という行動を起こすに至る「感情のエネルギーみたいなもの」を「理由」として表現出来るのならば、部活を辞めるなんていう「事件」は起らないということなんですよ。

「感情のエネルギーのようなもの」というのはつまり、理由を作り出す前の体の状態のことです。

 体の中には色んな細胞がいて――もしかしたら細胞だけでなく霊的なものもいるかもしれないし、もっともしかしたら本当は全部機械なのかもしれませんが、そうだとしても――その体の中に存在するもの全てが、一致団結して一つの思いを抱くということはまずあり得ないでしょう。

 右目は賛成だが、左足の小指は反対だとか、聴覚はそう思うけれど、嗅覚は全くそうは思わないとか、そういうことはあり得るはずです。むろん、これは比喩ですが。

「感情のエネルギーのようなもの」というのは、そういう言葉にしていない時点での、体の中に存在するあらゆる「あれそれ」のことを意味します。ちょっと言い方が分からなかったので「あれそれ」としますが、この「あれそれ」は数学でいうところの「X」とかだと思ってください。

 その体の中のあらゆる「あれそれ」を取捨選択し、戦ったり、誰かが泣いたりしながら、脳が納得する形にまとめ上げたものを人は「理由」と読んでいるのだと思います。

 だから、なぜいま自分は椅子を蹴ったのか、という問いに対する答えに「むしゃくしゃしてたから」という理由を採用したとしても、体の中には「蹴ったら楽しいと思った」とか「別に蹴りたいとは思っていない」とか「全く心底理由はない」とか、そういうものは同時に存在しているはずです。

 つまり、ある一つの理由を表明するということは、他の無数の理由を排除するということでもあります。

 急に本筋に戻りますが、岩松作品はその「理由」ではなく「感情のエネルギーみたいなもの」を大事にしてくれていると思うのです。誰もが当たり前のように「理由」を表明しているけど、それってそんなに簡単なことじゃないぞ、というのを表してくれているような気がするのです。
 だから私は岩松了作品を愛しているんですね。

 愛してるんだな〜愛!

 岩松作品には、理由があれば(分かれば)こんなことにはなっていない(こんな行動はしない)という人間たちが、それでもなんとか理由を説明しようとして、理由の付近をぐるぐる回って、結局は理由を決めきれなくて事件を起こしてしまう、そういう構造があるような気がします。

 愛、愛だなー! 好き!!!

 とってもびっくりしたんですが、ここまで今回の舞台についての感想を書いていないですね。びっくりしました。ちょっと長いし分けようかな~。
 分けますね。
 今回は岩松さん愛してるよ篇ということで、後半で舞台の感想みたいなものを書きます。

 さてさて、じゃあこっちの記事は残りは次回の記事の予習ということにしますね。

 私は岩松さんをとっても愛しているので、出来るだけ観にいきたいのですが、今回は本当にチケットが取れないかと思った。取れなかったときのことを想像して「もしかしたら全部夢だったのかも知れない、そんな夢のような公演はなかったのかもしれない」という思考の準備体操を沢山していました。
 取れたときにも同じように「夢か!?」と思ったので、私は夢が好きなんですね。夢って美味しいですよねー。

 俳優さんのことを少し書きます。

 私はV6の森田剛さんが主演で、そりゃあもう大人気だろう、と恐れる気持ちと、私自身も『シブヤから遠く離れて』を二宮の和成氏を目当てに見に行って、長じてこんなにも岩松さんを愛する生命体になったわけで、とっても嬉しかったです。普段見ない人も見てくれるーと思って。
 いや、何者なんだ?
 なんか、こういう感想とか書くと、常に「お前は何様のつもりなんだ?」みたいな自意識と戦わなきゃいけなくて大変ですね。私は末端の大人アルバイターです。まだ何者でもない。

 そう、それで森田剛さん。
 私は森田剛という人間についての情報はさして持っていなくて、一年に一度強く強く「剛健コンビ、尊き、感謝、永遠に……」と思うくらいで、本当に何も知らないので、普通にきゃー、森剛を生で見られるの? しかも岩松さんの舞台で? という喜びだけ抱えて行ったのですが。

 おこがましいですが、めちゃくちゃ魅力的な俳優さんですよね。
 本当に舞台の上に存在しているだけで、何か抱えている感じがあって、全く嫌みがなく、かといって自然体でもなく、なんと表現すればよいか良く分からないのですが。素敵だったなー。

 と、思うことなく思いながら舞台を見入っていたのですが、どこだったかな、なんでもないシーンで、部屋の中から出てきた姿を見て「ひゃっ」と思いました。
 えっ、格好良くない? なになに? わー! ってなった。
 やっぱりそういう格好よさが出てしまうものなのかな、と思いました。もう二十年以上「格好良い」ことを求められ「格好良く」あった人間の持つ立ち姿みたいなものを見たような気がします。アイドルだけが持つ特別なものですよね。アイドルは本当に良い。大好き。

 それから、恋人のリン役の平岩紙さん。素敵だったですねー。
 いくつかの舞台に出てらっしゃったんですが、すごく、すごいですよね。なんて言ったら良いんですか? カメレオン俳優とか言いますけれど、そういうのともちょっと違う。液体で出来てるのかな? と思う。
 自分が何を言ってるのか良くわからないけれど、平岩さんも全く嫌みがなく「その人」だなぁ、という感じがします。なんだか透明ですよね。あと顔が可愛い。ファブリーズのCMが変わってしまってちょっと悲しいです。随分前の話だけれど。

 それから二見役の新名基浩さん。
 『少女ミウ』の時も思ったのですが、全うに屈折している人間の感じがすごく良かった。岩松さんの書くひとは「屈折! オレは、屈折しているぞ!」みたいな感じじゃなくて「あははー屈折?」みたいな感じのねじくれ方をしている気がしますが、その中でもちょっと全うめの屈折をしている人間がいて、二見もそういう感じだと思うのですが。良かったですね~。良かったという語彙しかなかったですけど。ぴったり。素敵でした。存在感が好きだなー。

 なんか、一人一人語り出しそうなので、そろそろやめて起きます。
 最後、勝地涼さんについて熱く語って今回の記事は終わりにします。もう充分長いけれど。
 勝地涼について語らねばなるまい。私は。

 何度も言ってますが『シブヤから遠く離れて』が私の人生のターニングポイントの一つで、あのとき、あの舞台の最後のシーンを見た時に「私はこの道で生きていこう」と違い、未だにその道の上に立てていない人間ですが、そんなことはどうでも良くて。
 勝地涼さんもあのお芝居が初舞台だったんですよねー。あー! 感慨!

 『シブヤ~』の時は自分もまだ少年の範疇だったくせに「わー、少年だー!」と思っていて、もう本当に少年だな、という感じで、あれだけの大御所に囲まれて初舞台でこれは応援しなくては、と本当に何様なんだという気持ちで見ていました。その後も見る度に『シブヤ~』の子だ、応援しよう! という気持ちでいたのですが。
 私はつい最近までお脳があれして記憶があやふやなので、途中の勝地涼の記憶を失っていて、最新情報はあっちゃんと結婚したというものです。私はあっちゃんも勿論好きなので「え? どっちを応援したらいいんだ?」みたいな気持ちで生きてきたのですが、両方応援すればよくない? と今思いました。

 で、今回の舞台で、久しぶりに勝地涼という俳優を意識して見ました。
 すごい俳優さんだな、と思いました。少年だーと思って応援していた記憶がまだ私の中で新しかったのですが、どれだけ遙か昔で止まってたんだと恥ずかしくなりました。化石ですね。

 登場人物の魅力も勿論ですが、この役が勝地涼でよかった! ありがとう! という気持ちで一杯です。岩松作品が似合う! 全うじゃない屈折をしている人間だったなー。人間だったなー。好きだなー。最高だなー。
 これ以上感想がないな。
 すげー最高! という気持ちです。めっちゃ良かった。うわー! よかったなー、あと五億回見たい!!!!

 と、やっぱりとっても長くなってしまった。もう終わりにします。
 岩松作品が大好きだ! というのと、俳優ってすごいな! という記事下ね。記事? 記事なのかこれは。
 次回は、ちゃんと『空ばかり見ていた』について語ります。ぽよぽよー。

 という訳で、アルバイトに行ってきます!

あるか分かりませんが、サポートがあったら私はお菓子を食べたいと思います!ラムネとブルボンが好きです! あと紅茶!