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260923 自立する

きのうから「自立」について考えてる。
わたしは親元を離れてからずっと自分の生活は自分で働いたお金で賄ってきたので、ひとはわたしのことを自立している人間だと見做しているとおもうんだけど、実はそうではない。
特に海外に四半世紀以上も住んでいて、その際ずっと一人暮らしだから自活して自立しているように見えてしまうし、自分もそんなふうにおもってたときもあった。

でも、全然そうじゃないんだなーってきのうわかった。

発端は、依存。
彼との付き合い方で、自分がいかに彼に依存しているか、次から次へと思い知らされる出来事が続き、それが自分の目を醒させた。
ほんと、容赦ない依存への気づきを促す連続攻撃、ダダダダダーっと。
気づく前は執着してしまい、余計に拗らせてしまって、何もかもがこんがらがって精神的に疲弊してしまったし、何が悪いのか探ろうとして彼に責任転嫁をしたり、自分を罰したり。

それがきのう、ふと自分は自立していないんだな、ってわかった。
自力で生活はできるけど、それはそういう運だったからで、精神のほうは誰かに依存したくてしょうがなかったみたい。
思い返せば、ずっとそうだったし。
依存したいから、自分には自活の道が開けているのかもな。
依存するな、という試練というか、できるよ!という愛みたいな?
結婚してたって、パートナーがいたって、扶養されていたって、家庭を持っていたっていなくたって、自立した精神のひとはいっぱいいる。
お金の有無じゃない。
お金持ちでも、世間体のよい仕事を持っていても、一人暮らしで衣食住自ら賄っていても、精神的に自立できていないひとはいっぱいいる。
必要なのは、健やかなメンタリティと強さと弱さの無理のないバランス。
わたしは無理っぽい感じで強さを得て、自立を演じているからなあ。

よくわかった。

まあ、人間という動物は依存無くして生きられないようなところもあるみたいだから、依存が一概に悪いわけではなく、過度の依存が問題になるんだろうかね。
それで、わたしの依存の種類はその過度の依存なわけなのだった。
重さが、たぶん、それは海外でひとりでがんばってきたことが反映してしまっているんだとおもう。
重荷を下ろしたいから、誰か助けてーーーといっているような。

そこは、誰も助けてはくれないんだぜ、ってこと、自分は頭ではわかっているんだけど、気持ちのほうがだらっとそっちに雪崩れ込んじゃう。
ちょうどいいひとが現れると止めどない。

自分は精神的に自立して、依存を軽くしない限り、誰かとrelationshipを持つのは難しいかもしれない。
自分は自分と仲よく手を繋いで生きていかないと。
忙しさにかまけて、よく見ていなかった。
ひとりの寂しさに埋もれず、そこから這い出て軽々とジャンプして、明るいほうへ向かう。
今までだってひとりでどこへでも行っていたじゃない?
ひとりですごく寂しい気持ちがしたときもあったけど、「自立」を考えたらそれは寂しくない。
「自立」なんだ。


それで、
自立の定義だけど、
自分でおもうのは、内田樹さんの考えを元にして、
支え合うひとをひとりでも多くもつこと、
そういう支え合う環境の中に身を置くことで、
倒れることを防ぐ。
人間はひとりでは自立できないんだよな。
職場以外には属している場がないから、そしてその職場の人間関係も支え合うには程遠い状況、長年の在英で自分が作ってきた環境は空っぽに見える。
だから自立できないんだ。
支え合うことを避けてきた面もあるんだよな。
支え合うって面倒なことだから。
親戚家族が身近にいない環境を選んできたのもまた自分だし。
いろいろよくわかる。

そんなこんなで、
わたしはちょっと今までとは違うような環境作りを意識しよう。
支え合える人がいっぱいいるっていうのは自分には向かない構造におもえるから、自分らしい形を探ろう。
また1から始めるみたいに。



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