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060124 曖昧だけどおもうこと

年末はイタリアのシシリーに11日間行っていたんだけど、
いまから思えば夢のような日々だったナ。

実際には
空港での長い待ち時間や、Cとの小さい諍い(主にわたし由来)や
移動先の睡眠事情、たべもの事情、トイレ事情、常にひとと一緒にいること(Cは空気だからだいじょうぶだけど、その他のひとびと)、わくわくが反動でストレスになること、老い、言語、太陽光線、騒音、イタリア事情がわからないことへのストレス、などなど微細といえるけど、旅行にはストレスがつきもので、日々の生活が営めないことへのストレスは案外ある。
英国にポーンと飛んで住み始めたのだから若い頃はものすごく軽かったけど、いまはそうでなくなったのは事実だな。
年に3回はどこかへ飛んでいるから、ふつうの人に比べたら旅行慣れしていてもこういう感じは実はある。

それはそうなんだけど、
思い返してみれば、やっぱり楽しかったんだよな。
上記のようなストレスが起因して不機嫌になったりしても、それでも楽しかったなー

Cがわたしの気持ちを隠さず曝け出せる驚くべき人材なので、
不安になったら手を握り、向こうの感情が不安定なときは肩を抱き、うれしいときは頭を撫でる(わたしが)。
疲れたときはもたれかかって、眠れないときは抱きついて寝る。
必要なときはキスをする。
そんな人間が自分の周りにいままでひとりでもいたでしょうか。

わたしは自分で作る家族を持たなかったから、
それは故意ではなくてただそうなったんだけど、
やはり憧れがあって、できれば子を生んでみたかったような気もして、
なぜそういう人生にならなかったのかな?とおもわないわけでもないけれど、反対にCとアタッチメントがなくてよかったねというような話もする。
自分に起こったことが正解なんだろう。
正解というか自然、いや違うかもな、「道」が一番しっくりくるかもな。
自分に開かれた「道」。
まあ使い古された比喩だけど。
だから悪いことも起こるんだよな。
でも、それがわたしの「道」ならば、それは「悪いこと」ではなくなる。
わたしの「道」だから。

生きていたらいろいろなことはある。
でも、自分の道を行くだけ、ほんとただ行くしかないんだけど、水たまりをよけたり、歩きやすい道を選んだり、坂を上ったり、分かれ道で迷ったり、道草を喰ったり、よい香りに気づいて周りを見たら両脇に花畑が広がっていたりもするかもね、はたまたふいに石ころに躓いて膝から血を流すことも……落とし穴に落ちることもあるんじゃないかな、つまり長い道程にはいろいろあるんだよな。
でも、辿り着く場所はたぶんみんな同じなのではないかな。

それで
しあわせっていうのは、自分の道をすきだなっておもえることかもね。

でもでも、
例えば、いまのパレスティナの現状や、ウクライナ侵攻、或いは地震や津波の被害、そういういまを生きているひとびとや、道半ばでこの世を終えたひとびとなど、そういう道を歩かざるを得なかったひとびとに対してはどうなの?というのもあるんだけど、
表層と内層は違うし、そこを読み取るのは難しいし、またひとの幸不幸は測れないので、「わからない」という一語で語るほか術がない。
わからない。
もしかしたら、その背景にはわたしが窺い知れない、わたしが体験していることよりももっと強い愛とか精神性、そういうのを心に蓄えているひとだっているかもしれない。
そのひとの現状は悲惨に見えても、そのひとの心は不幸だとはいえない。
そのことが『夜と霧』に書いてあった。
クリスチャンの友は「ひとには役割がそれぞれある。例えば殺された子どもや難病の子どもに対して、神はどこにいるの?という問いは立てられる。神はいて、わたしたちにそこから学べといっている。早逝の命を想い、忘れないことが大切なのでは」というようなことをいっていたっけ。
『役割』っていうのはすきなことばじゃないけどね。

わたしは能天気に
Cとは同じ道を一緒に行けるといいな、といまはおもってる。
ずっと手をつないで行けたらいいんだけど。
それも、人間は変わる生き物だから、確かなことと永遠はないんだよな。


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