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Fast Car

トレイシーチャプマンが「Fast Car」をリリースしたのは1988年のこと。この曲を収録したアルバムは大ヒットして翌年のグラミー賞で「最優秀新人賞」「最優秀女性ポップス・ボーカル賞」「最優秀コンテンポラリー・フォーク賞」を獲得している。
トレイシーチャプマンのよく通る力強い声が好きで、私もこのアルバムを買った(引越を何度かするうちに無くなってしまったけれど)。
「Fast Car」は一番好きな曲だった。
1988年はチャプマンが24歳、私もたいして変わらない年齢だ。この曲の主人公の女性もチャプマンや私と同年代なのだろう。現実から逃れてどこかに行ってしまいたいと思っていたり、かっこいい車に乗っているからという理由で恋人を選んでしまう若いがゆえの危うさになんとなく共感していたように記憶している。

この曲が名曲だと思うのは、シンプルだが耳に残るメロディーと特徴的なチャプマンの歌声はさておき、歌詞がとても深く秀逸で、1曲に込められた情報量の多さには感心させられる。
彼女と恋人の馴れそめ、彼女の出自、両親や恋人の性格、憂慮すべき社会背景などがそれぞれのエピソードと共に浮き彫りになり、チャプマンの歌声と共に曲の世界に引き込まれていくのだ。

以下 歌詞を和訳してみた。

「Fast Car」by Tracy Chapman
あなたは速く走る車を持っていて
あたしはどこかに行きたいの
これで決まりね
ふたりでならきっとどこかにたどり着けると思うの
どこだってここよりはまし
ゼロから始めるのよ 何も失うものはないわ
ふたりでなら何かできるわ
あたしには何もないけれど

あなたは速く走る車を持っていて
あたしはここからふたりで逃げ出したいと思った
コンビニでずっと働いているから
少しなら貯金もあるわ
それほど遠くなくていい
ちょっと隣りの州の街中まで行ったら
ふたりで仕事をして
生きている意味を実感できるかもしれない

あたしの親父は困った人で
酒瓶を抱えて働きもせず生きている
自分は年老いてもう働けないというけれど
それほどにも見えないの
ママはそんな親父に愛想を尽かし
自分の人生を生きるために出ていったわ
「誰かが代わりに面倒みなきゃ」と
自分に言い聞かせ、あたし学校を辞めたの

*1
あなたは速く走る車を持っていて
それは空を飛べるくらい速いかしら。
私たちどうするか決めなくてはね。
今夜ここを発つのかこのまま生きて死ぬのか

*2
行け行けでドライブした時のことを忘れない
すごく速くて、お酒を飲んだみたいな気分だった
街の明かりがきれいに並んで
あなたの腕に包まれて心地よかったの
あなたのものになって
今までの自分とは違うだれかに
なれた気がした

あなたは速く走る車を持っていて
私たちは楽しみながらゆっくり行くの
あなたはまだ仕事がないから
あたしがマーケットでレジの仕事をするわ
きっと今よりよくなるはず
あなたに仕事が見つかって あたしは昇進するでしょう
そうしたら狭い部屋を出て
大きな家を買って郊外に住みましょうよ

*2 くりかえし

あなたは速く走る車を持っていて
あたしは仕事をして生活費を稼ぎ
あなたは出かけて遅くまでバーで飲んでいて
子供に会うよりも飲み友達に会いに行っている
あたしはいつももっとよくなりたいと思っている
ふたりならきっとそうなれると思ったの
もう先が見えない あたしはどこにも行けない
だからあなたの速い車を出してきてずっとドライブしてほしい

*2 くりかえし

*1 くりかえし
<終了>

リリース後36年たった今、偶々思い出して改めてこの曲に耳を澄ます時、全く違う目線で曲を聴いている自分に驚いている。
あれから36年も経ってしまったのだとしみじみ思う。
あの時、歌の中の女性に共感を覚えた自分はもういない。いるのはすっかり母親目線になって、クズのような父親や恋人に呆れかえり、女性を心底しんぱいする自分。今よりよくなりたいと切実に思っても、なかなか底辺から抜け出せない、チャンスを得られない彼女の不遇を悲しむ自分だった。

チャプマンも今ではすっかり貫禄がついて、1988年の頃のボーイッシュでかわいい彼女の面影はあまりない。それでも歌うことは続けていてアルバムも何枚か出ている。昨年2023年には35年の月日を経て、「Fast Car」がCMA(Country Music Award)2023を獲得した。今も多くの人々の心に響き続ける歌なのは喜ばしいことだと思う反面、底辺の人たちの生き方が今もあまり変わっていないということなのだろうかという現実にまた複雑な思いがする。