ラムレーズン

「生意気な女の子と話したい」


 高校生の頃、私は土日だけネパールカレー店でバイトしていた。店長のネパール人の男性がとてもいい人で、金に近い茶色に髪を染めている私でも働かせてくれた。お客さんはそれなりに多く、顔なじみになる人もいたりして楽しかった。楽しみながら、私は趣味のアイスを買うお金を稼ぐことができていた。

 趣味といっても、毎日三食のたびにアイスを食べていたわけではない。毎週日曜日、バイトが終わったあとに駅ビルの中のアイスショップに寄り、香ばしいワッフルコーンに乗せられた二種類のアイスを堪能していたくらいの、ライトな趣味だ。

 当時の私にとって、アイスの味は二の次だった。とにかく色を気にしていて、特にけばけばしい色合いのアイスを好んでいた。明るいターコイズブルーが基調のチョコミントと、アメリカの綿菓子をモチーフにしたパープルとディープピンクの二色が入ったものがお気に入りだった。

 今思えば、あれは儀式だったと思う。私が通っていた高校は市内で一番レベルが高い公立高校で、校則はあってないようなもの。今でも、どんな髪型でもどんな服装でも問題ない学校だ。ただ、時々そんな自由に縛られているような鬱屈した何かを感じていたため、きっと、学校が始まる月曜日を迎えようとする私に必要だったのだと思っている。

『おばあちゃんはラムレーズンがいいな』

『色、かわいくないよ?』

『いいのよ、おいしければ』

『じゃあ、こともそれにする』

『琴子にはまだ早いかなぁ。少しだけど、お酒の香りがするからね』

『ふーん』

 私が高校三年生の時に亡くなった祖母は、アイスが好きだった。スーパーなどで売られているカップやスティックタイプのものではなく、アイスショップで本格的なものを食べたいといつも言っていた。この年にしては珍しいから仲間がいなくて、なんて笑いながら、よく私を一緒に連れていってくれた。

 バイトを始めてからは、月に一回程度だがアイスショップの色とりどりのアイスを買って祖母の家に行くこともあったため、こうしてマゼンタ色のかわいらしい看板を掲げたアイスショップの前を通りかかると、祖母の笑顔を思い出す。私は祖母にかわいがってもらったのに何か恩返しはできていただろうか、そんな風に、後悔の一歩手前の気持ちも感じる。

 薄暗い気持ちを奥に追いやり、私は待ち合わせ場所まで大学の卒論のことを考えながら歩いた。ふわふわ生地で真っ白なミニ丈のニットワンピースは、一月中旬の寒風から私の足を守ってはくれなかった。

 ◇◇

 最初に私が提示した金額は、三十分で二千円だ。初心者だから安い方がいいだろうと考えてのことだったのだが、だんだん値が上がっていき、今では三十分で五千円になってしまっている。今日の客はその倍の金額を出すと、会った瞬間から言っている。

「そんなにいりませ……いらないって、さっきから言ってるじゃない」

「いいから。その分きみが楽になるでしょう」

 客の男は、何を言っても聞かなかった。優しそうな見た目なのに意外と頑固だなと思いながら、今はこちらから押すのはやめておこうと決めた。

「……まあ、そうだけど。お財布がどうなっても知らないからね」

 さっき通りかかったアイスショップのテラス席に座り、生意気な口を利く。客が「生意気な女の子と話したい」とオーダーしたからだ。目の前の社会人二、三年目という風体の男は、にこにこと笑っている。何がそんなに楽しいのか、何故こんな悪言を投げつけられても平気なのかと考えるが、もちろん口にはしない。

「三十分間一緒に話しながらアイスを食べるだけ、なんて女の子、知り合いから紹介された時は何だか胡散臭いなと思ったけど、来てよかったよ」

「そう? 何で?」

「……何も知らない同士で話すと、気が楽になることもあるから。仕事の人間関係が色々ね……、面倒で」

「ふぅん、そんなもんなのね」

 本当は、わかると思った。でも私はそれを隠し、徹底して生意気な態度を取った。演技してお金をもらうという行為の良し悪しは判断しにくいが、少なくともこの客の男にとって癒やしになっているのは間違いなさそうだった。そのことが、私の心も丸くしているような気がした。

「完全に口コミなんだよね?」

「それが何か?」

「頭がいいなと思って。どこかデートクラブみたいなのに所属しちゃうと、自由にできなくなりそうだし」

 客の男の穏やかな視線を感じつつ、カラフルなアイスを一口、プラスチックスプーンから舐め取る。今日選んだのはバナナ&ストロベリー。バナナ味の部分は優しいクリームイエロー、ストロベリー味の部分は周囲がクラレットのような落ち着いた赤紫で、真ん中が明るめのチェリーピンクだ。この組み合わせは、私の心の浅い部分をうまくコーティングしてくれる。

「褒めてくれるのはいいけど、早く食べないと溶けちゃうわよ」

「ああ、そうだね」

 あはは、と明るく笑い、客の男はプラスチックスプーンを動かした。その笑顔は私に、かつてバイトしていたネパールカレー店の店長を思い出させた。ゆるやかな微笑みをちらりと見てからスマートフォンで時刻を確認すると、そろそろ会って二十分が経過しようとしていた。それほど嫌な客に会ったことはないが、今日の客は気楽に相手できる分、ありがたかった。

「ここ、日が当たって暖かいから」

「優しいんだな」

「は? 何言ってんの? バカみたい」

「エロいことしようとするやつもいるんじゃないか?」

「……急に話変えないでよ。まあいないことはないけど、三十分だけだから、せいぜいキスくらいかな」

 生意気な女の子ってこういう感じでいいんだよね、などと思いながらドライに言ってみせると、客の男は「うーん」と唸って下を向いてしまう。前に一度だけ、建物の隙間に連れ込まれて無理やりキスされそうになったことがあったが、うまく逃げ出すことができて未遂で終わったのだ。でも嫌な思い出には違いないから、思い出させないでほしい。

「気を付けてね。男はみんなオオカミなんだよ」

「言われなくても、いつも気を付けてるわよ。……キスだって、されなくて済んだし」

「そう、よかった」

 本当に、心の底から安心したというような表情を、眩しく感じた。同時に、うれしくも感じた。若いだけが取り柄というような目の前の冴えない男は、私の心を動かした。このバイトを始めてからこんなに心配されたことなんて、今までなかった。両親や兄弟という近い間柄であるはずの家族でさえ、私のことは扱いづらい子として放置していた。

「こんな外見なんだから、そんなの慣れてるっての。心配なんてしちゃって、バカじゃないの」

 バカみたいなのは、私だ。家族とうまくいかないからって、かわいがってくれた祖母との思い出を引きずって、こんな風に知らない誰かと一緒にアイスを食べてお金をもらうということを繰り返している。髪を明るい金色に染めているのも、派手なメイクも、味なんか気にせず色でアイスを選ぶのも、ギャル服を着たくて体型を気にするのも、全部自分を守るためなのに。守っているはずの自分を、切り売りする。少しだけ切り取った自分を売った相手に、私はここにいると気付いてほしい、私がここにいることを許してほしいのだ。

「ははっ、いいんだよ、バカで。もうそろそろ三十分経ったかな? オオカミは退散するよ。はい、お金」

「ありがと……って、そんなにいらないって言ってるのに」

 低い声で言い放ち、少しだけにじんできた涙はできるだけ隠した。受け取った金額は、やはり一万円だった。

「まあいいじゃん、取っておいてよ」

「……あのさ、もう、やめるから。誰にも紹介しないで」

「あれっ、やめるの? えっと、うん、わかった」

「もう一回、会ってあげる。次いつにする?」

「ええっ!? いいの!?」

「お金払いすぎなのよ。仕方ないじゃない」

「そ、そうか、ごめんね。えーと……じゃあ、来週の、同じ曜日の同じ時間でいいかな? 待ち合わせも同じ場所で」

 バカなのは私も同じだというのに、彼はそんな私に謝ったりする。お人好しなのだろう。笑うと垂れ気味の目が一層優しくなることは、もう十分わかっている。

「いいわよ」

「また会いたいって思ってたから、うれしいよ」

 にこにこ。ほら、垂れ始めた。にこにこ。

「……じゃ、またね」

「うん。気を付けて帰ってね。ありがとう」

 毛先だけキツめにカールさせた金髪を揺らして、私は踵を返す。「またね」なんて、祖母の家に通っていた時はよく言っていたが、久し振りに言った言葉だ。

 次はラムレーズンを食べよう。大人になったら食べられるらしいから。お酒は苦手だけどラムレーズンを食べたいと言ったら、彼はまた心配してくれるのだろうか。そんなことを想像して、ほんの少しだけ、口に笑みが浮かんできてしまう。

「バカ、みたい」

 私の小さな涙声を、突然強く吹き付けてきた北風が、体温と一緒に奪っていこうとする。

「ラムレーズンは絶対に食べてやるんだから」

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