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画面越し

インスタの自撮りがおそろしく可愛く、「😫😫😫💓💓💓💓💘💘💘💘」みたいなコメントをしたらいいねをしてもらった記憶がある。

すごい人だけど親近感が持てる人だった。
優しくて、可愛くて美しくて、色気があって、その想像力をもって繊細に言葉を尽くしてくれて。それでいてめちゃくちゃおもしろい、多才な人だった。

亡くなった、というときに、亡くなって「しまった」というのが好きではない。
ほんとうに自分で選んだのだとして、「しまった」というのは、本人の意思を軽んじているようで。

ほんとうの原因は本人にしかわからない。
だから憶測はやめたい。
決めつけることは、心の暴力だ。

誹謗中傷?女性ホルモンの影響?
本人にしかわからない。

憶測なんてやったところで無駄だけどやってしまいたくなるのが人間の本性なのかと思う。
分析したがり、分類したがりというか。

三浦春馬さんが亡くなったとき、高畑充希さんのインスタの投稿で深く記憶している文章があって。
切り取りになってしまいますが↓

どうか妄想や詮索はしないで、
彼の数えきれないくらいあったチャーミングで素敵なところを思い出しながら、今は時間薬を信じたいと思います。

(全文はここから↓)

このマインドがすべてというか。

生きていたということ。
たくさんのものを残してくれた、
与えてくれたということ。

わからないことはわからない。
だったら確実な事実として、画面越しに、優しさや元気、美意識や笑いもたくさん届けてくれたこと。

もういなくて、悲しい、で止まらない。
たくさんのものをくれて、ありがとうという気持ちまで。

しかしそうは言ってもやはりさみしい。
もうすこしの間さみしいと思う。

心を尽くして発信していたものを、私の心が受け取って、私の一部を形成しているような感覚があって。
それをくれた人がもういないというのが、さみしいのだと思う。

それでも、自分のやることやりながら、過ごしているうちに悲しみは薄らいで、ありがとうの割合の方が大きくなってくれるはず。

与えてくれたものをたいせつに。
忘れず、生きる。

ryuchell ありがとう。

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