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私にとっての幸福と、かわいい彼について。


最近たくさんの人のnoteを読んでいて、みんな随分言語化が上手だなあと、自分自身についてよく表現できているなあと、思うことが多い。
私自身は内省的な性格であるし、俗にいう「1人反省会」も常時開催されているので、自分の行動や内面についての言語化はそれなりに行ってきたと思っていたのに、みんなの言葉と何が違うんだろう。ただ私の言語が未熟なのか、それとも何か大事なパーツが欠けているのか、みんなの言葉と自分の言語、比べると何かが足りないような気がしてしまう。

何が違うのか、知りたくて。自分自身について考えてみようとした。私を形作った過去はどんなものだったか。これも幾度となく考えたことがあって、何がどう影響したのか、わかっているつもりだった。今日もまたそれを行おうとして。幼少期から順番に、と書いてみようとして、なんだかできなかった。どうしてだか不安になって、手が進まなくなった。
だからもう少し要素を減らして、ちょうど2週間ほど前に書きかけていた文章がある、私にとっての幸せについて考えてみた。
また長くなりそうだ。



幸せってなに?
幸せというテーマは抽象的で、考えるのがとても難しい。
強いてあげるとすれば、、、自由であること?
そう、このnoteに挙げているとおり、自由で自然な私でいられること。

一般的な枠にはまらない、指図されない、何物にも縛られない、他者に左右されない、不動の自分自身が定まっている状態。己の感情と考えのままに自由に自然に、動いて、話して、生活して、それでいて成り立っている状態?(この"成り立つ"には自分が期待する程度の成功は得られるという意味を含む)
そして己の自由を思う存分謳歌して、堪能して、ついに自由に振る舞うことに飽きたら、
そのまま脳ミソが一番無敵な状態でポックリ御陀仏すること。単に心臓が止まるというよりは脳ミソが蒸発するようなイメージで。
それが今の私が思う幸福に、一番近い気がする。

あるいは、
原始時代に生きられればなあと思うことがよくある。現代は生活が便利で便利すぎて。余裕があるから、自分の状態や内面にばかり目が向いていく。
そして、ネットで色々な人生を知れてしまうから他人と比べるし、そのことで一喜一憂することがすごく多い。欲求の図(マズローの欲求段階と言うそう)の上の方。私自身は、もっぱら自己実現欲求ばかりを自覚する。

原始時代なら、そうじゃなくて、もっと3大欲求と言われる生理的欲求とか、安全欲求のレベルの欲求を主として求めることになるだろう。それくらい純粋な、淀みのない、身体が渇望する至極当然の欲求にさらされている方が、なんだか楽なような気がする。衣食住が安定しないのはとてもつらいことだけど、現代においても原始時代においてもそれぞれの苦しみは当然あるので、どうせ苦しむならその純粋な興奮や快楽こそ至高のものであるように感じてしまう。


ここまで考えて、

私自身がぱっと思い付く幸福には、やはり他者の存在が出てこないんだな、と思った。流行りのMBTI診断でINTPと出たとおりの内向的な特徴そのものだと思うけれど、それにしても他人の存在がない。

自分以外の人間との関係性、つまりは私の交友関係を振り返れば、仲の良い同性の友達はそれなりにいるけれど、まともに恋愛した恋人はほぼいないに等しいもので。だからこそ、恋愛、つまりは他者と深く繋がること、そこから生じる幸福がわからないんでしょうね。長々書いて結局、恋愛経験が乏しいせいで、他人との幸せを想像できないってこと。

ある人が、「結婚願望がない人は、子供の頃の家庭環境があまり良くなかった場合が多い」と言っていた。

まず私に漠然とした結婚願望ってものはないし、結婚に繋がるために恋愛がしたいわけでもない。結婚とは国が法で定める状態の一つに過ぎないと思っているし、婚約するとか籍を一緒にするとか結婚という事象そのものにはなんのきらめきも感じない。
そんな人だから、
恋愛についても、自然と、真剣に向き合ってこなかった。その結果がこの乏しい状況だろうか。


そして、上の姉兄と歳の離れた私は、母と父の仲が良かった時代なんてものは知らず、終わりのない倦怠期に突入した熟年夫婦の像しか見たことがない。さらには、孫が産まれるとか、母と父が共通の喜びでもって仲良くなれそうな、イベント•状況の変化が起こる前に父が死んでしまったので、2人の笑顔が揃った光景は永遠に実現しないものになってしまった。

幼少期に思い出せる母と父の様子というと、
父の車に乗れば母の悪口を毎度聞かされるとか、母と父がしょっちゅう喧嘩していたとか、母が八つ当たって物を壊すとか、母が出掛けるついでに出ていっちゃうんじゃないかって泣きながら帰ってきてねと外に引き留めに出たとか、父が怒って母を後ろから羽交い締めにしていた光景とか、家族でファミリーカーに乗っても会話の無い運転席と助手席とか(母が何かの理由で乗っていなければ最初のとおり)。なんかそういうのばかりだ。
抱き締められたような愛されたような記憶も思いつかない。両親とも、基本こちらの自由にさせて、褒めて伸ばすよりも、取り繕わせるために注意する人だった。唯一思い出せる褒められたことは、カラオケで歌がうまかったと言われたことくらいかな笑

たぶんどちらも器用な方ではなくて、私は私でこの親たちはそういう人なんだと受け流し、しかし嫌なことばかり反復して記憶に残してしまった。きっと父と母の中に私への愛情がなかったかと言えばそんなことは無いし、一般的なものよりちょっと少ない程度の、普通の範疇の愛情はあっただろうけど、私はその愛情を記憶することができなかった。父のことは大嫌いだった。幼い人格形成の時期にそうした環境で育ち、今に至る。
考えたことなかったけど、結婚願望と家庭環境、その通りなのかもしれない。



それから、他者との幸せを想像できないのに加えて、ある場合突然に自分はまあまあ薄情になるとも思う。

高校3年生の冬に父が死んだ時。
高校3年の冬は勉強に集中するために寮に入っていた。だから自分の父親が心筋梗塞で救急に運ばれた光景は見ていなくて、ICUで色々な管に繋がれて目を閉じている父に会って初めて現実を理解した。ただ、痛々しい父を見たほとんど第1印象として、ああもうだめなんだな、と思った。
急ぎ駆けつけた親族、母姉兄私、父の姉妹。私以外はみんな、「まだ死なないで」「帰ってきて」とか、「まだやることがたくさんあるだろ」「(父なら)帰ってこれる」とか、父の復活を信じていたのに、私はそんな自然で必死な親族たちを随分と俯瞰した目で見ていた。父の妹の叔母さんが数珠を持参して父の胸に擦り付け、「大丈夫よ。お兄ちゃん帰ってきて。」って言って泣いて手を合わせているのを見ながら「いやあ無理だろう、神頼みじゃあなあ。」と側で思っていた。
ICUを離れ、病院内の親族の待合室に全員で移動しても、話が合わなくてその場にいられなかった。親族はみな、大丈夫だきっとなんとかなると励まし合っていたのに、私は父が復活する想像なんてできないものだから、居心地が悪くて「寝たい」とか言ってドラえもんのように押し入れの中に避難していた。それでも会話は聞こえるし私のことを気にかけてくれるから、結局退室して1人になった。
想像どおりに父は死んでしまって。深夜に父を看取って、父の亡骸と共に実家に移動した。当然みんな寝られなくて、8個年上の兄が私の部屋に来て、兄が寝るまで兄の話を聞いた。
私の高校の卒業式の日に父は焼かれた。変に焼却場と高校が近かったから、お骨を抱えて自宅へ向かう車内で、卒業の造花を胸に飾った同級生が歩いているのを見た。担任には「休みの理由はインフル疑いの熱が出たとでも言っといてください」と伝えたので、父の葬儀で卒業式出られません、みたいなセンシティブなことは同級生は知らない。我が母校は、早めに卒業式を済ませて進学コースの受験に専念させる。翌日も変わらず顔を合わせる同級生達の変な同情なぞ、この時期には一番迷惑だったのだ。
さすがに通夜でも葬式でもたくさん泣いたけど、17歳で父が死のうが関係ない私は胸を張って生きるぞ、と思いながら泣いていたと思う。父の葬式から10日後に国立大学の2次試験の日を控えていたから、葬式の翌日も学校で授業を受け1日だけ放課後の受験勉強をサボった以降は受験勉強に完全復帰した。勉強しながら「あんな嫌いな父のために私の人生変えられてたまるか」と考えながら勉強した。遺影を探してカメラのSDカードを見れば、どこぞの女性との不倫写真が出てくるような男だ。母がこれを見なくて良かった。受験は第1志望に合格した。


されど17歳。そんな様子でも自然に悲しんでいたし、気落ちもしていた。しかし現実は無常だ。
葬式の翌日、何も知らない同級生の中にいつもどおりの風を装って当校した時。
17歳で父が死んで葬式のために卒業式すら出られずしかし誰にもそのことを知られまいとうつむき着席する私と、いつもどおり楽しそうに雑談し傍らを通りすぎていく同級生らが、その1つの教室には何の齟齬も無く共存していた。
その違和感を知っているのは私だけ。
曇りなき純粋な疎外感。
結局社会は、誰が入れ替わろうと、私がいようといなかろうと、何を考えていようと、変わらず勝手に回るのだ。
と思ったことをよく覚えている。
ここで、この一種の諦観のようなものを得たことによって、他者(人間社会)への期待というのがほとんどどこかへ行ってしまったのかもしれない。



愛も難しい。
小中高大院と、ずっと恋愛したいと思って生きていたのに、うまくいかなかった。
社会人も落ち着いてきた時、ついにじれて、マッチングアプリを始めた。しかしこの段階までくると、マッチングアプリを始めた目的は、まず処女でなくなるため。次いで、みんながやってる恋愛というのを普通に話を合わせられる程度には経験しておくため、とそんな感じだった。ごめん。
全国転勤族で女で結婚願望が無くて、今住んでいる家も3年いるかいないかという状態で、真剣な恋愛をする考えにならなかったのです。そしてそもそも家族愛も異性愛も知らないから、恋愛と自分の幸福とを結びつけられてもいない。


以上が、私の"幸せ"に対する考え方。
最近までの。



しかし実際にマッチングして、(一応)付き合うことになったかわいい彼という存在を知って、彼の考えを探索していくなかで、愛というものに非常に興味が出てきているのが現状。
人を愛すること、それはやっぱり楽しいものなんだろうか。私の世界を彩るだろうか。私の幸せに繋がっていくだろうか。

少なくとも、彼に向けて「好き」「かわいい」と言うことが私の心をあたためている。それを言おうと考えるだけでも、ニヤけてきもちわるい顔になっている。仕事中なんか、その浮かれ顔がモニターに写って我に返るのだ。

加えて、彼は元気な時に「芸術ですべての人を幸福に」という理念を掲げて世界に発信していた。彼の考える幸福とは、いったいそれは何なのと、気になって止まない。

だから一刻も早く元気になってほしいと思う。4年も継続してしまった鬱は相当根強いと思うし、回復したとして以前と同じようにはいかないだろう。
けれど、
なんとかして、どうにかして、なんでもして、彼が羽ばたける地を作ってやりたいと思う。その一助になってやりたい、羽ばたけるようになった時に私ではない人との幸せがあるならそうなってもいい。なにせ私は急いでいない、場当たり的にでも、柔軟に動ける自立した女なのだ。
だから私を頼れ。ナウシカのようなこの過不足なく豊かな胸でいつでも包んであげるから。ちょっと何かされたくらい、悲しんでも、許容してあげるから。
半公務員、安定しているし、ミニバン新車を2台買える程度の貯金もある。金もあれば中堅国立院卒で頭もいいはずだ。先日のnoteのとおり、痴漢を追い返す程度の度胸もある。
たくさん調べていい方法を模索して相談して寄り添って付き添って、君の話せない親殿にも代わりに対峙して、なんでもできるよ。
留まることはこれ以上良くなることも悪くなることも少なくて安心するかもしれないけど、
それでいいのかい。せめて楽しく美しいものを胸に、生きたいのではないのかい。



君はこれを読んでいるんだろうか。読んでいてほしい気持ちが半分、読んでほしくない気持ちが半分。
最近、自分から自己開示をしないと相手も開示してくれないということを身をもって学んだ。君と最初に会った時にそれを知っていれば良かったのにねえ。
それを最近知ったから、僕は模索中だよ。会えていないのにどう自己開示したものか。難題だよ。
試し行動なのか、回避性なのか、はたまた悲しいことにもう好きではないのか、わからないけど、安心してほしい。男1人に潰されるようなぬるい人生送ってきてないから、どんと構えて向き合うよ。
待っているし、どこへでも行けるから、君を愛させてよ。愛するという愛を、私に教えて。
私と君なら、なんでも乗り越えていけそうな気がするんだ。きっと乗り越えて、素敵なものを生み出せる。
だから、手を伸ばして。


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