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脱臼小話(1) 反復性肩関節脱臼手術までの道のり

1週間ほど前、長年悩んでいた肩の脱臼を根本治療するため手術を受けた。2時間弱の手術の予定だったが、肩の組織の損傷度合が大きく、さらに強度を増す処置をしてもらったため結局3時間の大手術になった。手術前に想像していた痛みをはるかに上回る痛みが1週間経った今も続いている。リハビリは始まったけれど、「え、腕ってどう動かすんだっけ?」というぐらい動かない。夜も寝るのに一苦労だ。でも、今後の人生を考えたら本当に今手術することができてよかったと思う。もう突然肩が外れることがないと思うとほっとした気持ちになると同時に、この10年の脱臼と共にある記憶を振り返るとしみじみとしてしまう。

ここでは、(忘れることはおそらくないだろうが)備忘録として脱臼のエピソードを記しておくとともに、これから肩の反復性脱臼の手術を受ける方にとって役立ちそうな情報も載せておきたいと思う。

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今から約10年前、高校のスキー教室で初めて右肩を脱臼した。それまで脱臼の経験はなくて、最初は自分の肩に何が起きたのかわからなかった。いつもの位置に肩がないし、歩くだけでも痛いし、とにかく不安だったことをよく覚えている。雪上バイクで診療所に運ばれて、肩を整復してもらったけれど、痛みはおさまらない。残りの日程、もちろんスキーは滑れないし、スキーから帰った後も部活のバレーボールはできないだろうと絶望し涙がとまらなかった。あれだけ大泣きして、いろいろな人に心配や迷惑をかけたが、この1週間後に台湾旅行へ行っているのだから随分のんきだったし、体力があったのだなと思う。

脱臼は再発する可能性があるから十分気を付けてくださいとお医者さんにも言われていたが、2年も経つとそんなことはすっかり忘れてしまっていた。二度目の脱臼は、体育の時間でテニスをしているときのことだった。大してうまくもないくせに、調子に乗って上からサーブを打った瞬間に「ヴォンッ」という聞いたことのない音が体の中を走った。「あ~これ、脱臼だ」と理解するまでに時間があったように思う。とてつもなく痛くて、呼吸するのが難しかった。体操着のまま、整形外科のある近くの病院へ行ったが痛くて仰向けになることすらできなかった。仰向けにならないと整復ができないと言われ、結局静脈麻酔をうって整復してもらい、目覚めたときには肩は元の位置にあった。仕事を抜けて病院へ付き添ってくれた父は、何を思ったのか「おいしいカレーそばのお店があるから」と、帰り道に蕎麦屋に連れて行ってくれた。右腕を負傷しているのになんでそんな所に連れ行くんだよと思うが、その時に一生懸命左手で食べたカレーそばはとても美味しかったし、父なりの励ましだったのかと思うとほっこりする。

二度目の脱臼当時は高校三年生で、翌日が河合塾の模試だった。受験生なのにまったく勉強をしていなかったので、「模試を受けれない仕方ない状況」は内心とても嬉しかったけれど肩が猛烈に痛いのには変わりがない。それに、この時は痛みが引くのが初回よりも遅かったような記憶がある。治りが遅くなるほど、勉強をしたくなかったのだろうか。肩を理由に受験生にとっては大事な夏休みの間も大して勉強をしなかったが、なんだかんだ大学には合格。大学での一大イベントであるサークル選びにも、脱臼の再発のことを考えなければいけなかったのは辛かった。大好きだったバレーボールを続けるのは断念し、リハビリにもいいだろうと水泳サークルを選んだ。はずなのに、3度目の脱臼は水泳が原因ではなくサークル合宿のレクリエーションのバレーボールで(ただのバカ)。もちろん注意しながらプレイしていたけれど、注意していたら絶対外れないわけではなく、サーブの瞬間「あ゛っ」と声が出たときには私の肩はボールと共にどこかへ行ってしまった(ような気がした)。この時はなんとか自分で整復することができたけれど、さすがの私も、もう絶対にバレーボールのような肩を使うスポーツはしないと心に誓ったし、大学卒業後はスポーツをほとんどしなくなった。

このあと数年間、いろいろなことがあってフランスに住んでいた。この期間に肩を脱臼しなかったのは奇跡としか言いようがない。保険証は申請しても一生手元に届かないし、お医者さんに診てもらうのには100万年かかるような国で脱臼していたら、きっともう肩がなくなっていたに違いない。このフランス滞在で私はすっかり肩の脱臼のことを忘れてしまっていたが、「私を忘れないで」とでもいうかのようにフランスから本帰国して1か月後、4度目の脱臼がやってきた。

ーーー脱臼小話(2)「伊豆で脱臼、ビキニで整復」「半裸で脱臼、深夜の救急車」へ続く。



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