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世界に貫かれている普遍的な理法

落ちている石につまずいても、予め落ちていた石に避けろと伝えることはできない。


理不尽

いかに困難があろうとも、その事に対して嘆いてもどうしようも無く「どうしてこんな大事なときに」「どうして自分がこんな目に」としてもそれに対処するにはその地点にあって、過去に自身が与えた影響や、まったく関係の無い場や関係のある場からの因果から困難が発生するから、それに対して予め準備して置く程度が限界だ。

つまずいた石に説得は不可能であるように、過去や逃れられない不幸はどうしようも無いと感じた瞬間から受け入れる余裕が無くなってしまう。

その石は予期出来なかったから回避出来なかっただけだ。


理性

どうしようも無い不幸というのは理性でその情念を制御するしかない、ある種の禁欲的な思考でそれを修行やゲームでいうところのクエストのように捉えることで自身が鍛えられているとすれば、その地点を乗り越えた先に自身の成長を期待するから理性が強く働く。


自然に従う=理性

勿論、人であるが故に苦悩もするから理性でもってストイックに生きることの辛さはあるが、自然に従うという流れに身を置くと俯瞰的な観点から物事を捉えれるからそれを学びと捉えれるし、そういう相手だったとか、そういう事故であったとか、人はこう思考するんだなという自身の中の第三者が介入することで解決出来なくとも解決に向かう。

自然に従うということは理性に従うということと同義で、例えば生まれ持って環境が良くないとか、自身に完治しない消えない傷や疾患があるとか、俘虜の事故、災害、そういう要素を受け入れるのは自然に従うことによってのみ精神が安定する。

あらゆる自然にその理法は存在する、世界には普遍的に理法が存在するからその不幸に対峙できる要素になっている。自然に逆らわないというのは理性を保つ要素が入るから、ここでいう自然に従うことは理性を持っているという捉え方として要素に入れている、つまりは理法だ。


頼る

どうしようもないときにやはり頼ることは重要になる、それは自身に頼ってもいい、休んだり癒せばいい、それは一見して甘えているように発散しているだけのように見えるがそうじゃない、他者に頼ってもいい、ここに変な意識、プライドのようなものが介入するとストイックさを履き違えて死んでしまう、あるいは殺してしまう。自身も他者も殺してしまうなら頼ることもストイックな要素に入る。

頼れば感謝も生まれるから、自分に感謝出来たり他者に感謝出来たりする。人は案外頼られれば幸福になるもの、それは自身にもいえる。

その食事や人に感謝出来るのは命を感じているからだ。


生命を感じる

困難を超えたところに命が宿ることがある、これを間違えて解釈すると恨みになったり自分を追い込んではどうしようもないとして取り返しがつかないから、その壁を乗り越えるとその先で待っているのはその命の尊さにあると理解すれば自ずと意識が変化する。

感謝で幸福が得られるのだから、命を感じた瞬間から幸福を感じられる。

本当に今感じている腹ただしい出来事はそれだけが支配しているかと考えると、結局のところ自身の中に存在している。


洗脳と意図を混同しない

SNS内にある不快と感じる要素は製作者の意図にある、よくそのコメント欄を見てみるといい、明らかにおかしな要素が含まれていたりBOTの存在が確認出来る。そんなものは存在しないと思いがちだが、フォロワーを売り買いする業者もあってその手法は昔からよくある話だ。

そのおすすめから表示されるそれも、そこに夢中にさせる意図が含まれている、しかしその狭い世界の中が全てだと誤解しているとその世界に支配されてはこの世があらゆる不幸に満ちていると勘違いしてしまう、こういった意図も少なからず含まれていると理解すれば無意味に反応することも無くなるでしょう。

陰謀論者になってもいけないが、その意図も含まれていると理解すればそれが自然であると受け入れる要素にもなる。ここに思い込みが含まれると精神の疾患の症状に入ったり、陰謀論者になる。それが趣味というのなら仕方ないが、その意図は全くない事も無いが、全てと捉えては確定させた時点で病と同じ位置に固定されてしまう。

利用するなら有意義に使いたいもの、意図に支配されずかといってそれに固定されない意識、それこそが有意義なものと出来る要素になるのだから。

その意図を逆手に取れば楽しめる要素にもなり、そうやって仕組みが出来ているのかと理性によって自身に活用ができる。

この世界にはあらゆるところ、あらゆる場面、あらゆる幸福、不幸、情念にその理法が存在している、その理法を持って理性を活用出来ると世界を自身をおもしろがれる要素に入る。

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