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暮らしは開発者によって支えられている

仁という言葉は肉親に与える愛だとされている、それを他者にも自然に振る舞えなければ自身の存在を否定しているのと同義だ。


我々人間が生きているのも他者がいるからこそだ、その開発は暮らしを支えてくれている、人は個人では子孫を残すことは不可能なことからもその他者にも仁、つまりは愛を感じざるを得ない。


自然に発生する愛

その一部の愚かさを許せないのは多数の人に支えられているという自覚が無いからでしょう、ひとりで生きているとするにもこの世界が今存在しているのも他者と他者が結ばれてそこから産まれては繁栄している、そうして他者が開発していった"もの"や技術は受け継がれているし、そのものはこの世のありとあらゆる場に提供されている。

もし本当にひとりだというのならひとりになろうとしてみるといい、必ず上手くいかない。

例えば無人島に向かうとする、その乗り物は誰が提供しているか、そのチャーター料などの支払いは自身が払っているようにみえて、他者から売り上げた一部を対価として受け取り、そうしてそのボートなり船なり車なりを所有したりレンタルしている。

仮に歩いて泳いで無人島に辿り着いたとして、その道のりは整備した他者が作り上げたもの、その島には所有者の存在もあるかもしれない、無断で立ち入ることさえ出来ないかもしれない、ではその情報は何処から入手するかというと、他者が用意したその情報を見聞きしたりネットや書物などでしか手に入らない、そうしなければ実態すら捉えられない。

その島が自身の所有物だとしてもその権利が発生した経路は必ず他者が介入している。

もし無人島に誰にも頼らず運よく辿り着いたとしても、その最初、家で目覚めて起きた瞬間から他者が作り上げたもので溢れている。その建物もベッドも衣類も靴も何もかもが自身が所有しているようにみえて他者が介入している。その原点、自身が生まれた瞬間から他者の存在なくしては生まれることすら無かった。

これは人だけの話ではなく、この世にある全ての万物にも同じ事がいえる。


是非の心

正しい判断をするというのはある種、感謝の意を表すことに等しい。生まれたくなかったというのなら死ぬしかないが、生きている間は是非の心で正しい判断を要求される。それは生きている限り誰かの開発や両親を含めた誰かの存在から自身が存在し生まれたのだから、そこに感謝をせざるを得ない。

死ぬとしてもそこに誰かが必ず介入する。

死ぬことすらひとりのように見えてひとりではなく、孤独死というのも言葉遊びのようなものであって、どのような環境であろうとも他者からの影響で自身が生まれて死んでいく。

内面的、主観的な仁という愛が自然に発露して、外面的、客観的な礼という行動に表れるとすれば、先に思いやりをもってそれをそのまま自然に捉えれば良いだけだ。

その暮らしは開発者や他者の存在から生まれ、ときに自身も支え、他者からも支えられている。

これを理解すれば自ずと感謝をせざるを得ない。

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