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無気力の経典

「今の時代調べれば何でもわかる」というのはそれそのものが誤解であり、無気力を生んでいる。


無気力

無というのは全ての事をやっていて全てを知っていて初めて無になる、知った気になっていると全てを知っていると誤解しては有であるはずの意識が無になってしまう。

その意識は行動にも表れる。


宗教改革

無気力の歴史は繰り返されている。

・ドイツ-国民による反発
16世紀、贖宥状しょくゆうじょう販売を決行し「これを買えば天国へ行ける」としたカトリック教会に対してルターがこれを否定し、聖書はもっと崇高なものであるとし、それまでカトリック教会に搾取されてきた者が支持した。

こうしてルターは命を狙われ、ルター派による反乱戦争が勃発、こうして分断を恐れた帝国はルターの言い分に妥協し、カトリック派とルター派のどちらも支持してよしとした。

これは後に30年続く宗教戦争の起因ともなっている。

・イギリス-都合による変更
ヘンリ8世が妻と離婚がしたいがカトリックでは離婚は認めておらず、ならばとヘンリはその都合から新しくキリスト教をつくり自らをリーダーに就任した。

後のエリザベス1世の時代には統一法が施行され、イギリス国教会の儀式や教義が整備された、つまりは後付けで宗教の中身を変えた。

カトリック教会は宗教改革への反撃、「対抗宗教改革」を展開。これは端的にいうと私達は偉いという改革、これをイエスズ会を結成し広めた。これに反発する者を「魔女」と称して火あぶりにした。

こうして強引に進めていったが思ったようには広がらず、ならばとキリスト教が広まっていないアジアなどで広めた。

▲宗教改革の結果、カトリック、プロテスタント、ギリシア正教の3つに分断。

その無気力から解放を望んだ。


宗教は知った気になれる

人やネット等々での話や情報に関心したときに生じる知った気になれるという現象によって、俺は私は全てを知ったとして全てにおいてそこで完結させ「知らないものがあってもどうせ調べればわかる」といった全能感から無気力を生む。

16世紀頃のイギリスではお金を稼ぐのは悪であるとしていた、ただ黙々と善行を行うことが全てであると洗脳されていたからだ。

悪行を働いては天国には行けないというその教え(洗脳)から無気力を生み、それに納得さえしたから皆は従っていた。

神は存在すると盲目的に信じ、それを全てだと思ったからこそ全体が無気力に向かった。


無気力の経典

16世紀のキリスト教でいうところの教えを現代に置き換えるならば、ネットでの検索や論者による有り難い話、哲学、そういった部分に入っている。それを簡単に手に出来ることから俺は私は全てを知ったとして無気力になっている。

そうしてあらゆる分野を差別と生じて、善行を履き違え、これは経典のように振る舞い、その教えはあらゆる善行を行わなければならないという意識に向かっている。

賢者は黙るべき事態にまで陥っている、何故ならこの事態は論じないことが論じることに通じるからだ。

少なからずともこれを理解していればどうでも良い他者の不倫、暴言、そんなもの大したものではない。それらが世界の恐慌に向かっているように振る舞っているだけで、そのどうでも良いもの自体は世界になんら影響を与えない。その不倫によって森林が枯れる訳もないし、暴言によって海が枯れる訳もない。しかし、これらの問題は現代において森林が枯れる要因にもなりえるし、海が枯れる要因にもなりえる。

そのどうでも良い愚行によって株価さえも下がる。

何故そうなるのかといえば、そういった事態になろうとも注力している場がそこに支配されているからだ。本来注力すべき場は日本国内なら人口の低下や物価高、あるいは戦争は良くないであるとか、AIの活用法、クリーンエネルギーについての議論などであって、どうでも良い他者の暴言や人の失態などに注力している場合ではない。

それはその無気力の経典によってその自身の不甲斐無さの場を持っていく全体の慣性によって生まれているに過ぎない。


興味関心は知らないから生まれる

空白は埋めたいと思うのは人の心理だろう、知らないからそのことについて知りたい、出来ないからそのことをやりたい、その空白こそが興味関心に向かい、目標や目的が出来るからそれに注力出来る。

何かに挑戦するにもその知ったかぶりによって無を生んでいる。

皆、私を含めて何も知らない、知らないのに知ったように感じているだけであって、知っていると勘違いしているから危ういんだ。

問.
「神はこの世にいますか?」

これを知る者は存在しない。

▲無料コンテンツと供給過多|ekkusii (note.com)

我々人間は生きている理由、目的といった単純なことさえ知らない、知ることが出来ないのに、あらゆる遊び、あらゆる学びさえも無料コンテンツが過多になることで、知らないのにそれを知っているという意識が全体の慣性となって挑戦は悪であるとしたり、数値を持っているのは悪であるとしていて、結局のところ出来ない自分に酔っている、そうして知っているふりをしている自分に酔っている、であるから善行のふりをしながら八つ当たりをしている。

自身は何もしていないにも関わらずだ。


まずはやってみるところから

それそのものの知識は私は無価値と思っている。

誰でもいい、何でもいい、取り合えずやってみると知りたいと思ってくる。

やってみるとこれを知りたいこれをやりたい、そうして新しいものを知ったときにその派生であるものを知らない、だから知りたいやりたいとなるだけのもの。

そこで得る知識に価値がある。

不誠実さは楽しくないから生まれる、楽しくなければさぼりたくなるが辛くとも楽しければ誠実になる。全てを知っていると誤解すると自身に不誠実になって楽しくなくなっては他者に求める、しかし、そういう者ほど殆どを知らない。

失敗は不誠実かというとそんな訳がない。

不器用で良いからやってみると合う合わないという分野もわかってくる、合えば楽しくもなってくる、そうすれば誠実にもなれるでしょう。

そういった誰でも何でも良いから今はやってみることがこの現代における無気力の病の解放へと繋がるでしょう。

そこに書いてあるのは経典ではない、慣性を生むだけのもの。

調べるという行為は何かを知っていて初めて調べるから、そのものを知らないと調べることは実質不可能。知っているからそれを明確にしたいとして調べ、そうしてその派生に別の知らないことが生まれる、そうしてあらゆるものを調べては知るという体験になる。

皆同じ人間であり、互いに相互関係に無いようにみえて全体としてその一部であることから、だからこそその行動は慣性に繋がる。

知っているつもりになるその病は無気力の経典から発生している。

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