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無神論者も社会という宗教に属している

神教はその制限をかけて苦を持って楽をする為のもの、と同時に社会は逃れられない最も大規模で強制的に入信させられる宗教である。その中でも、信じることを疑わない、信じないことを疑わない"信狂"は危うい。


生きているという制限

視覚。

人には目がある、目があることによって確認が出来るがそれを目にすることで悩みが増えることもあれば明確に出来たと振る舞えるもので、これはひとつの機能から視るという制限がかかることで発生する。

聴覚。

聞ける為にそれによって判断が鈍ったり確認が出来たりしながらも、明確に出来ない音から誤解したりする。目で見て耳で確認した場合は見て聞くという制限がかかる。口頭で説明、あるいは説明された場合にも明確に出来たと振る舞ったり誤解したり曲解したりする。

嗅覚

嗅げるからそれが腐っているかの確認が取れるように見えて、かといって発酵していると出来ないものでもあるし、その匂いが不快だからこそ判断出来たり曲解したりする。

触覚。

感じることが出来たり触れることで確認出来たりするも、その感覚や感触から誤解したり理解したり曲解したりする。

思考、想像。

脳には各々のキャパシティがあって、ある者は理解出来る、ある者は理解出来ない、かといってわかるからこそ悩みが増えることもあるし、誤解が生じることもあるし、曲解することもある。しかし、理解出来ない場合は制限がされることで悩みが増えないというものでもあって、それが誤解を生んだり曲解することもある。想像が過多になって良いとする分野もあればそうでない場合もあり、曲解を生む可能性もあるし、理解が出来ることもある。

死。

死ぬ事でこれら全ての制限から解放される。

これらに該当しないものは誤解も出来ないし理解も出来ないから曲解すら出来ない、もしわかったと思っているのならそれは間違っている、つまりはわからないようになっている。


神教の否定の否定

人を遡っていくとそのスタート地点は何処にあるか、猿、アメーバ、宇宙、こうして辿っていくとある地点から明確に出来ない。

わからない事は語る必要がない|ekkusii (note.com)

つまりはわからないのだから考える必要が無い、しかし、人は物事を明確にしたい、明確にしたいから取り合えず神という存在がいればその悩みを無くすことが出来て、ある種、目や耳や口といったように制限をかけることでその不安が解消される。

ではその神は誰がつくったのかというとわからない、だとしてもわからないことは一旦置いておいて、取り合えずこの世界は神がつくったのだと決めつける(制限する)ことによってその悩みが軽くなるということ。

これは無神論者は自ら過酷な道へ向かっているとも取れることから、そこから逃れるすべとして神を信じてしまうことで悩みを単純化し、その悩みから解放されることですっきりとして物事に注力出来る。


無神論者は神教を簡単に論破出来る

これは悪い意味でもある、全てを考え実行することが出来る無神論者はそれだけで思考や行動の幅の制限が減る。神を信じているのならそこに制限がかかるからどうしたって無神論者は神教を否定出来る。

しかし、制限が無いことによって悩みも増えるし、かといって理解も増えるし、それは曲解を生むこともあるからそこに制限(考える事を途中で放棄)することで生きやすくもなる。

これはどちらにもメリット、デメリットが存在し、片方が否定をしてもその否定をしている側も同時に否定される。


神狂は否定するべき

何かを信じている場合、それを他者に強制する理由がないことからも、無神論狂も神狂もどちらも否定される。

神を信じていないから愚かというのならその神を信じている人も愚かとなってしまう。ではその神と出会った、あるいは見た、聞いた、触った、嗅いだ、という者はこの世に存在しない。

しかし、それを信じることで脳には想像という形で残る訳だ。

"想像した"というのは『実在しない』がその者には実在していると思わせてくれる。この事によってそれを見ていない、聞いていない、触ってもいない、嗅いでもないという両者、無神論者と神教者は互いにその部分では一致しているのにも関わらず、それを互いに信じろとして攻撃する理由は存在しない。

つまりは想像するのは勝手だが、強制する必要が無い。


戦争

信じることに狂った人間、ここでは信狂とする、その信狂者によって様々な争いが起きている。それは自分を信じている、あるいは神、あるいは国、あるいは都合を信じているから無駄に戦争を引き起こす。

信じて疑わないことも罪であるし、かといって信じないとして疑わないのも罪といえる。


教えに従う事で悩みが一本化する

肉を食べてはいけない、酒を禁じる、煙草を禁じる、これらはその教えの後付けにある。神、あるいはその支配者、経営者、そういった者に対してまず信じるから人はそこに向かう。そうしてそこには目的がある、会社に利益をもたらして欲しい、店舗に利益をもたらして欲しい、宗教が発展して欲しい、これは自然界にもあって、そのリーダーを信じているからそこに向かった、群れに入った、そうしてそこに一体感を持たせる為にルールが生じる。

そのルールはごく自然に発生する、猿ならその世界観の中に群れのルールが存在するし、コンビニならその群れの中にルールが存在する、会社にもルールが存在する。

宗教でもその群れにルールがあるから一体化する。


都合

これはある段階から洗脳に入る、リーダーを信じているからその群れに入るのだから、そのリーダーはそこを利用して目的によって規律を作っている。その規律はその都合から作られていて、それを広めたいのならその場を愛して欲しいから納得出来る規律をつくり、それに従わせることで指導者の都合に合わせて動いてくれる、これが洗脳だ。

ではそれが悪いと出来るかというと出来ない、何故なら何処にでも規律は存在しているし、得てしてその支配者には都合があって、こうしたいというその欲求の都合から規律をつくる。規律が無ければあらゆる違法が成立する為にその場が纏まらない、であるからその場を規律で制限することで一本化し、その都合を群れによって達成しようと向かってくれるので効率が良い。

かといってある教えを広めたいとして、それを広める必要があるのかというと明確に無い、それを広めたところでそこに制限が入る為に新しいものを取り入れにくい、しかしそれを広めることで纏めることは出来るのでその都合は有利に働く。

何を信じていいのかわからない者にも都合が良い。


社会と世界観を混同

その宗教には世界観がある、宗教という括りは会社でもある。その群れのルールには独自のスタイルがある、朝にラジオ体操をするとか、社訓を読ませるとか、経典を読ませるとか、では世界にそれを強制させる必要はあるのかというと明確に無い。

朝にラジオ体操を強制させるという規律は世界全てに必要かというといらない、アフリカの奥地で狩りに出かけている者達は必要としないし、日本にいる者達でも運動は他にいくらでもあることから明確にいらない、それを行うのは自由である。

個人事業主の掲げる社訓が全世界に必要かというと明確にいらない。そこにはそれぞれの役割もあれば文化も違う、リッチ条件も違えば客層も違う、もし分野さえも違えばまず必要ない、出来るならその場に臨機応変に合わせたい。

食肉を禁じるという規律は全世界に必要かというと明確に必要ない。その食肉の危険性はその肉にある細菌によって疫病化しているとか、そういった社会全体としての問題なら必要だ。そうなれば食肉加工を行っている工場にもそれを規制出来る、そこに法律ができるのは社会のルールであってその各々の世界観ではない。

社訓はその場のみの世界観であるから、社会と世界観を混同してはいけない。

例えば宗教の規律が仮に「人を殺しましょう」という規律だった場合、それは社会的に法律で罰せられる、だから社会と世界観を混同してはいけないのはごく自然な事。

もしその世界観を大切にしたいのなら社会の規律にも従って当然で、その社会のルールも守れないのならその世界観の規律もあって無いようなものだ。

何故ならその社会の法律は最も広まった教えであるからこれ以上の大規模な宗教は無い。そしてその法律も都合で生まれている、これをされて欲しくないの統計のようなもので、それは各々の人の都合と国の都合から出来ている。

小さい世界での宗教観はこの社会のルールの範囲内でしかない。


哲学

良い教えを広めたいというのは欲求であって、宗教の始まりはその教祖の哲学にある、その考えに対して納得したからそこに向かった。そしてその教祖も元々はあらゆる規律だったりを持っていた訳ではないことも多くあり、そこにはその時代背景もあってその時代に必要な考えというのも持ち合わせながら全体としての考えが良かったから広まっている。

その後にその教えを広めたいという欲求を持った狂信者がつくっている規律がかなりある。例えばキリストはそれに近い言葉を残しているのだけれども、それを強制しましょうとはしていない。

であるから同宗教観の中にも派閥が出来たり、まったくの同教祖から発生したあらゆる宗教観の中に別々に規律の違いが存在している。これはもはやその教祖の教えとは関係のない位置に存在している。


全人類は社会という宗教に属している

まず社会という圧倒的に大規模な宗教があってそこに各々や各国の都合から規律がつくられている。それが基盤としてまずあって、その中に別の小規模な宗教が一派として各々存在している。つまりは全人類はその社会という宗教に属しながら各々が別の宗教に属している。

無神論者はその社会という宗教に属している宗教家であり、それとは別で各々が好きにその社会という宗教ともうひとつの宗教に属すなりしているのが俗にいう宗教家だ。

規模としては社会という宗教が最も規模として大きいので、そこからずれた行動をするのは規律違反となる。これはその社会宗教の一派である別の宗教の規律から社会という宗教の規律を違反しても罰せらるから、社会宗教の規律を守れないのはその一派である宗教家としても愚かしいことになる。

このように無神論者だろうが何かしらの宗教に属していようが宗教そのものは否定できないようになっている。

全人類は社会という強制的に入信させられる宗教に属している。


社会という宗教の歴史は最も長く大規模

人が生まれて今日までその社会という宗教は継続されて来た長い歴史がある、それは人に限らず猿などの生物にも存在することから、その大規模な社会宗教家達からすればその派生である一派の数百年、あるいは数千年の歴史しかない小規模な宗教はサークル活動のようなもの。

学生によるサークル活動が社会のルールを守れないなら規律違反であるように、その一派である宗教家が社会の規律違反を犯すのは最も愚かしい行為だ。

ましてそんな一派である小規模で歴史の浅い宗教に属しているのに自身は神の使いであるとして、横暴に振る舞ったり、強制したり、戦争という愚かしい争いをすれば、遥かに昔から存在する大規模である社会宗教に属する者達に失礼にあたる。

そもそもがその社会宗教になじめなかった弱者や愚者がその浅い歴史の小規模な宗教に逃げ込んだだけである、その自覚も無いから増長しているだけだ。

ましてその社会宗教は全世界にあって、その全てが属していて且つ自由のない強制入信を余儀なくされるという最も規律の厳しい宗教なのだから、そのサークル活動の宗教家達もそこに属していると自覚しなければならない。

その小規模な浅い歴史の社会宗教の一派でしかない宗教における規律を破ろうとも、牢獄に入れられる訳でも無く、死刑にされる訳でもない、あっても精々そのサークル活動から外されるだけだ。全世界で活動している社会宗教家達はそんな甘い世界じゃない、そんな甘い宗教観ではない、掟を破れば殺されることもあるからだ。

断言していい、いや断言しよう、社会のルールを守れないのならどの宗教に属そうが反宗教主義者であり罪人である。

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