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不幸は火力になる


快楽主義は一見して悪

人はどうしたら幸福になれるのかと考え、大きな金銭を求めたり大量の食物や高級な食物を求めたりする、自然の形で空腹から食べ放題を選択したとしてそれは不可欠とは言い難いので自然ではない、どうしようもない状況や状態から過度に求める場合、人は無意識に死を意識していて過度の摂取をしたり過度に回避したりする。


死を恐れない

我々が存在しているときには死は訪れないし、死がやってくるときには我々は存在しない、結局は物質は原子の集まりであって、生命が肯定されている場合は死ぬことは無く、なるべく苦痛が無いのなら質素に生きることで問題が無い。

痛みが無くお腹が減っている訳でも無く、イライラしたりむかついたりせず苦痛が無いならとりあえず幸福なんだ、死んでしまえば感覚は無いのだから死は怖くない、死を求めるから苦痛だと感じるという矛盾から死を恐怖している、無意識に苦痛から解放されたいと願って死を求めることで新たな苦痛が生じている、そうして過度な生命維持が発動して過度に求めるようになる、それはまったく関係の無い他者にさえ求めては攻撃的になってしまう。


苦痛を取り除く

どれだけ得れていてもそこに不幸があると認識すれば不幸であるように、幸福であるという気分があれば幸福であるという要素からその苦痛を取り除けばとりあえず幸福になれる、不幸な状態とは身体の苦痛と精神の苦痛から来ているのだから、空腹なら食べて、寒いなら温めて、暑いなら冷やして、そうやって苦痛を一旦取り除いてから安定を図れば控えたり抑えたりとバランスが取れるようになる、まずは身体を甘やかして次に身体の安定を取る、精神的な苦痛もまずは甘やかして次に精神の安定を取る、快楽を否定せず肯定もしなければ安定した行動が取れる状況や状態に入るとそれだけで幸福になれる。


快楽の否定の否定

快楽主義は快楽だけを追求するという意味合いだから悪に見えるだけであって、まずは安定を取る為の必要経費のように否定も肯定もしない、状況や状態づくりをする為の手段と捉えればどうしようも無い不幸に対峙できる、駄目だと思いながら快楽を否定だけしているとその快楽に浸かった瞬間から逃れられない、それは死を無意識に意識しているから求めているだけであって、まずは死を恐怖とせず快楽を否定も肯定もせずとすれば安定した状態に自ら持っていくことができる、それは一つの手段として捉える。


安定を手にしてから挑戦する

凧揚げは皆誰よりも高く高く昇ろうとするが、各々の凧には大きさや性能も違う、ある一定の高さまで来ると凧は傷つき糸もほつれていく、そこで攻撃されたりしながら凧の傷は蓄積されていき目立てばさらに攻撃される、それでも必死に耐えて仮にその攻撃された相手を追い抜いて更なる高みに辿り着いてもまた新たに敵は発生する、そうしてどんどん凧は傷んでいく。

この時一旦は敵が見えない状況に入ったとしても凧は崩壊寸前であればちょっとした自然に発生する突風にやられて糸が切れてしまう、そうすればその地点が高ければ高いほどに地面に落下した衝撃が強くなるからその衝撃に耐えきれず修復不可能な損傷になるし、あるいは糸が切れた凧が突風から高い木の枝に飛ばされてひっかかってしまっては救出不可能となってしまう、だからこそ一旦そこそこのポイントに辿り着いたなら糸を手繰り寄せて地面に返してあげる、そうすればその凧の修理を行うことが出来るし、ここを強化すれば次に楽が出来ると補強したり軽くしたりできる。

一見してその戻る行為は精神的に逃げているように感じられたり、またスタート地点に戻る行為だから効率が悪い気もしてしまう、しかしまた再度挑戦した場合、前回到達した高さにはその経験や補強した強さが伴っていて倍以上の速度で前回よりも簡単に同じ高さまで到達できる、これがトライアンドエラーの重要性となっている。


不幸は火力になる

もし誰にも邪魔されずに凧をあげ続ければ順風満帆だと誤解して強化も修復も行わず誰もいないからこそ敗北も勝利にもならない、多少の不幸があるから強化できるし他者がいるから比較されるので自身もそれに影響を受けて成長する、そこには敗北もあるし勝利もある、不幸はある種その強化に入るから強みに変化する。

とんでもない不幸は死もあるがとてつもない強化にも繋がる、かといって死ぬ事もあるから時々は安定させれる状況や状態を作り体制を整えたりしてはその不幸を糧にしたい。

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