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Tracktown SHIBUYAからTracktown JPNへ。

いつしかコミュニティーFM 渋谷のラジオのアーカイブでも一番聴かれる番組へと育った陸上競技雑談番組「TracktownSHIBUYA」が文化放送のポッドキャスト「TracktownJPN」として移籍することになりました。移籍する主な理由は開局の立ち上げから丸4年、制作部長としてやってきて、スタッフも育ってきたところで、そろそろ離れてもいいんじゃないかと思ったこと。東京オリンピックでの取材パス申請もできたこともあって、2020年は夏まで海外のレースに行き、海外のカメラマンにもまれながら取材修行しようと考えていたからです。(いろいろ予定は変更になったけど笑)

「TracktownSHIBUYA」が産まれた渋谷のラジオがどういうラジオ局なのかを書いておくことにしました。あの番組はとても「渋谷のラジオ」らしい番組でしたし、ラジオだけでなく、これからコンテンツを作る人たちにとっても、いろいろ応用できるような気がしたからです。

2015年の12月に知人から「どうしても会って欲しい人がいる」と頼まれて、代官山のカフェに向かいました。会って欲しい人とはクリエイターの箭内道彦さん。全く面識はありません。ちょうど、その年の秋に渋谷区に新しいコミュニティーFMができること。そのラジオ局は箭内さんや福山雅治さんらが関わる、コミュニティーFMとしてはかつてないものになりそうだ。ということがネットニュースでも話題になり、知人がそのラジオにも関わっているみたいだということは聞いていたので、それがらみだろうなあということは薄々とは感じてはいたのです。なので、全くの初対面の箭内さんから「渋谷のラジオ」の構想について話があったときも、さほど驚くことはありませんでした。2016年の4月から開局することになって、いま準備をしているところだと。ラジオ局やアンテナを立てつ場所の確保はできた、コミュニティーFMという特性上、視聴エリアがせまいため、アプリを使った補完放送を考えていると。そのアプリはラジコではなく独自のアプリを開発しているところだと。いまは放送局としての側がようやく整いつつあるが、ラジオ番組そのものを作る人がいない。だから制作部長として制作側の体制を作ってほしい。という話でしたが、二つ返事で断りました。まず、ラジオそのものに全く興味がなかったこと。一番大きな理由は間近に控えた箱根駅伝のことが気になって、ラジオなんかどうでもいいと思っていたからです。「3ヶ月だけ、いや3日だけでもいいから」と畳み掛ける箭内さんに「箱根駅伝があるからできません」と伝えると、なぜか、これが、箭内さんにはピンと来た。なぜなら箭内さんの出身は福島。そう、駅伝大国福島出身がゆえに「やたら駅伝に情熱をささげる人」には馴染みがあったのです。

「なんだ、そんなことか。西本さん、箱根駅伝はぜひ優先してください」という話になりました。しかしなあ。断る理由がさらにありました。開局日は4月1日。4月3日はパリマラソンにエントリーしてて、すでに飛行機のチケットも押さえていたからです。当時の目標は1月からの3ヶ月間で身体を仕上げて、パリマラソンでボストンマラソンの参加標準記録を突破することだったのです。まあ、タイミングが合わなかったということで、と、さらに強めに断ろうとしたのですが、「いま、周囲がそんなラジオ局、失敗するに違いないという目でみてるんですよ。それが悔しくて」という一言を聞き、心変わりをしました。目の前に困っている人がいる。だから助けようと。「よくわかんないけど、やりましょう。なにができるかわからないけど、開局までなんとかやります」そうして、ラジオのことは全く知らなかったけど、ラジオ局を立ち上げることになったのです。

渋谷のラジオができるまえ、渋谷区には「SHIBUYA-FM」というコミュニティーFMがありました。渋谷マークシティーのZOFFがあるあたりに、サテライトスタジオがあったことをうっすらと覚えてます。そのSHIBUYA-FMは業績悪化などの理由で放送休止、放送免許を返上したのだそうです。その後、東日本大震災でのコミュニティFMの有効さが話題となり、「渋谷にもコミュニティーFMを」という声が地元の有志たちからあがってきたのを箭内さんやその後、渋谷区長となる長谷部健さんらが中心となって、何年もかけて認可をとるために、毎週集まってミーティングを続けているうちに、放送認可が突如おりて、開局は半年後と決まり、バタバタと動き始め、あらゆるラジオ関係者に「渋谷のラジオ手伝ってくれませんか?」というオファーがいったようなのですが、ラジオ業界からは「お手並み拝見」という感じで、ややひいた目でみられていること、渋谷のラジオの立ち上げに求められるのは、編成から制作から総務から宣伝から営業からすべてをいったん引き受けること。失敗したら業界でも話題になるだろうから、そんなリスクは誰もとりたくない。あらゆる人が断って、断って、断り続けられたあげくに、全くラジオを作ったこともない面識のない、ぼくのところにまで話がやってきた。ということらしい笑。もはや開局まで実質3ヶ月。人選よりも、すぐに動いてくれる人が必要だったのでしょう。

年があけて、1月。これまで放送免許認可が降りるまでの手続きをすすめていた事務局の人と会うことになりました。いわゆる事務方と呼ばれるタイプの人です。まずは渋谷のラジオが現在までに進めていることを把握することからはじめようと考えたのです。「現在のタイムテーブルはこちらです」事務方がテーブルにひろげたA3の紙を見て、崩れ落ちました。朝8時から夜12時までの放送のうち、決まっているのは夜7時〜10時までの箭内さん友人を中心とした著名アーティストや文化人が出る枠(渋谷のナイト)と、10時から12時までのアミューズの若手タレントを中心とした枠(渋谷のラジオの学校)だけで、全曜日の朝の8時から夜の7時までが真っ白だったからです。「この白い所を全部埋めるの?」「ええ。」「誰かディレクターはいるんですか?」「いまは一人もいません。」「そこから?」「ええ。そこからです」
火中の栗をひとつずつ素手で拾い上げるような日々がはじまりました。

さらっと終わるかと思ったら、
長くなりそうなので、続きはまたあした。

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