見出し画像

■ 其の150 ■ 能初体験

🔣先週の浪曲に続き、初めて「能」を見に行きました。
場所は同じアステールプラザで、開始時刻も同じ2時。
前回は何の気構えも予備知識もないまま会場に行きましたが、
今回は敷居の高そうな能です。そしていかにも眠くなりそうです。

それもあって、和辻哲郎の名作「面とペルソナ」を読み返し、能の本質と文化人の気分を注入し、中ホール能舞台へと向かいました。
「面とペルソナ」は文庫で7ページほどの文章です。

何度読んでも、解りやすさと難解さ、染み入る感じと高尚さの混在した文に触れることができます。しばらくすると何が書いてあったか忘れてしまうのですが、再読すると水分補強をするように蘇ってくる文章です。
能に関わる部分から一部抜粋します。

 これらの面の真の優秀さは、それを棚に並べて、彫刻を見るのと同じようにただ眺めたのでは解らない。面が面として胴体から、更に首から、引き離されたのは、丁度それが彫刻と同じに取扱われるのではないがためである。即ち生きて動く人がそれを顔につけて一定の動作をするがためなのである。然らば彫刻が本来静止するものであるのに対して、面は本来動くものである。面がその優秀さを真に発揮するのは動く地位に置かれた時でなくてはならない。
             〈中略〉
 それは男であるか女であるか、或は老年であるか若年であるか、とにかく人の顔面を現わしてはいる。然し喜びとか怒りとかいう如き表情はそこには全然現わされていない。人の顔面に於て通例に見られる筋肉の生動がここでは注意深く洗い去られているのである。だからその肉づけの感じは急死した人の顔面に極めてよく似ている。特に尉や姥(じょうやうば)の面は強く死相を思わせるものである。このように徹底的に人らしい表情を抜き去った面は、恐らく能面以外にどこにも存しないであろう。能面の与える不思議な感じはこの否定性に基いているのである。
 ところでこの能面が舞台に現われて動く肢体を得たとなると、そこに驚くべきことが起ってくる。というのは表情を抜き去ってある筈の能面が実に豊富極まりのない表情を示し始めるのである。面をつけた役者が手足の動作によって何事かを表現すれば、そこに表現せられたことは既に面の表情となっている。例えば手が涙を拭うように動けば、面は既に泣いているのである。更にその上に『謡』の旋律による表現が加わり、それが悉く面の表情になる。これほど自由自在に、また微妙に、心の陰影を現わし得る顔面は、自然の顔面には存しない。そうしてこの表情の自由さは、能面が何等の人らしい表情をも固定的に現わしていないということに基くのである。 
                    [ 太字部分は、実際は傍点 ]

🔣さて、これを心に留めて会場に入ったものの、座席は前から11列目。
けっこう距離があり、能面の表情はほとんど感じられませんでした。
正直、睡魔にあらがいながら、能舞台の空気感と世界観をそれとなく味った感じです。

役者だけでなく笛・鼓・謡など全部で10人ほどが舞台上で有機的に作品をつくりあげている雰囲気です。なんだかセッションだなと思いました。‥‥われながら素人感あふれる感想です。

🔣さて帰りは会場を出てから、平和公園を抜けて、繁華街に向いました。
平和公園は世界各地から旅行者が来ている特別な場所です。だけどわたしはただの通行人。慰霊碑前で数秒手を合わせてからすぐに通り過ぎます。同じ場所にいても、ある人には特別、ある人には日常という不思議な感覚です。

ふっと考えました。・・・もしわたしが旅行で合掌造りの集落を訪れたら、物置や用水路でさえも新鮮に映るかもしれません。そこがわたしには特別な場所でも、住民にとっては日常(そして迷惑?)なことでしょう。

🔣元安橋を渡って交差点の手前では、先週と同様、エホバの証人が勧誘をしていました。原爆ドーム周辺は、「宗教の勧誘」から「持論の語り」まで自由に活動できる場所です。

エホバといえば、以前同じバイト先で働いている人がいました。
彼が十年くらい布教活動していると言ったので、「これまで何人くらい勧誘できたの?」と訊いたところ、0だと言われ、えーーっと驚いた記憶があります。
そういえば、宮台さんを襲ったのはエホバの二世だったなと思いました。
繁華街に入る頃には、能のことはもう脳から離れていました。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?