因業爺

僕も還暦を迎えて半年になった。
肉体の老化はどうする事も出来ないが、せめて精神的には若くありたいと願うものである。

自分がまだまだ若い時には、あんな大人にはなりたくないなぁと言う大人像があった。それは所謂因業爺である。頑なに自分に拘って、何物をも受け付けない・・・そうした自分を想像するだけでぞっとしたものである。

然し、今の若者からすれば、自分はそれ程しなやかで寛大な心を持った大人に映っているのだろうかと思うと、ふと不安になるのである。
自分の中にある失いたくない自分を持ち続けている事が、他人からすれば頑固者と思われるかも知れない。だからこそ、失いたくない自分というものは、自分本位の利己的なものに偏らず、出来れば利他の心に重きを置いていたいと思うのである。

こう言うと僕が他者に思いやりの深い人物だと思われる方がいるかも知れないが、そこは多いに疑問である。
例えば、こんなに自分はあなたを思ってこうしているのに、何故それを分かって貰えないのか?という事象は日常稀な事ではないからだ。そこには、自分を理解してもらえない、自分を受け容れてもらえない事に、苛立ちや不満の心が垣間見られるのである。
どうしたら、そんな気持ちを払拭して達観出来るのだろうと思わずにはいられない。

様々なシーンで僕は、自分の住む世界は狭い・・・と言う事を言い続けてきているが、幸いにしてその世界の中で僕は人に恵まれていると思う。
あの人がいてくれるから、自分は生きていられる・・・という、身内(と言っても今は天涯孤独な自分ではあるが・・・)を大きく超えた大事な存在の友人がいる。

どんなに経済的にも時間的にも余裕がある人でも、自分一人では生きてはいけないと言うのは、誰もが知る道理に合った当たり前のことであろう。
人は支え・支えられて生きているのだ。
そうした原点に立ち返った時、僕は漱石先生の言う、「世間には拙を守るという人がある。この人が来世に生れ変るときっと木瓜になる。余も木瓜になりたい」(草枕参照)と言う言葉に、非常に共感するのである。

人生80年時代と言わるこんにち、僕はこの後の余命を果たして、いい意味でしたたかに自分らしく生きていけるだろうか。
利他の心を温め、水のようにどんな形状の器の中にも収まる様な、柔軟でしなやかな生き方が出来るだろうか。

もしも、そうした生き方が出来るとしたなら、たとえ誰かから因業爺と笑われても、それは良しとしよう。

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