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富川さんの思い出  細川 映三

風邪をひいても寝込むということがないくらい、頑強な富川さんが急逝した。

富川さんの長女から私の職場に連絡があったときにも、悪い冗談としか思えなかったが、富川さんの死は受け入れ難い悲しい現実だった。急いでお宅を訪ねると、広い屋敷の一番奥の座敷に白い布を顔に被った富川さんが静かに横たわっていた。既に温もりを失った富川さんを目の当たりにすると激しい嗚咽と共に涙が止めどもなく溢れた。

富川さんは造り酒屋を営んでいた。亡くなった当日も午前中は仕事に精を出していたそうである。昼食を済ませたあと、何か様子が変だという従業員の知らせに、奥さんが駆けつけると目の前で倒れていったそうである。救急車で運ばれるときには既に命の灯は消えていたらしい。死因は動脈瘤剥離ということである。

この秋に数日富川さんは入院した。地元の山岳会のメンバーであった富川さんは、市の行事の登山の引率として日帰りの山登りに出かけた。帰った後体の不調を訴え入院した。お見舞いに出かけると、「細川君来てくれたのか、見舞いに来てくれるのは細川君だけだよ…」とベッドの上に丸く小さくなって点滴を受けていた。

「俺も弱くなったよ…若くないっていうことかな…」といつになく気弱なことを言っていた。「何か食べたいものはありますか」と尋ねると、「何も要らないがタバコが吸いたい…買ってきてくれ」というので、体には良くないだろうと思いながらも要求を聞き入れてやると至極喜んでいた。

今思えば、あの時の入院以来、富川さんは変わったような気もする。「毎日忙しく働いているんですから、いい機会と思ってゆっくり休養するといいですよ」と言葉をかけたが、あの時、しっかりとした検査を強く勧めていたら今回の死も食い止めることが出来たかも知れないと思うと残念でならない。

奥さんに、「主人の親しい友人に連絡をしてほしい」と頼まれ、住所録を繰って大学時代や山岳会で親しく交際のある方達に電話をすると、誰もが耳を疑いそして言葉を失っていた。

年の暮れが押し迫っていたので、仕掛かっている仕事もあるのではないかと、富川さんの事務を執っていた部屋で、解る限り整理をさせてもらった。

机の上に購入したばかりの来年の手帳があり中をめくると、どこかのテレビ局で人気番組を数多く手がけたというプロデューサーの語った、「これからの日本酒に求められるもの」といったようなテーマの講演の切り抜きがあり、最後まで研究熱心だった姿が垣間見られた。事務所の奥の富川さんの書斎のパソコンも電源が入ったままの状態で、「今年は少し凝った年賀状にするんだ」といって、購入したデジタルカメラを使った年賀状作りが途中のままであるのも、富川さんの急死を物語っていた。

富川さんと私の間には、守らなければならない絶対の約束があった。「どちらかが先に死んだら、湿ったお経などではなく、人目を憚ることなく必ずモーツァルトを聴かせる」というのがそれである。通夜の晩、弔問の方が落ち着いた後奥さんの了解を得て、交響曲二五番やディベルトメントをかけたが、あまりに予定外の又あまりに早すぎる約束の履行であった。

足繁く富川さんのお宅を訪ねた私であるが、たまにその間隔があいて久しぶりに訪問すると、
「やっとモーツァルトを話せる奴が来てくれた」と元気に迎えてくれた姿が思い起こされる。
 私のモーツァルト好きは、富川さんに触発されたものである。

「モーツァルトは明るくていい、曲に苦しい筈だった生活感が微塵もないのがいい。何処までも高く澄んでいる。人生はこうでなくちゃいけない」と言っていた。

通夜の晩は奥さんから、「細川さんは主人と親しかったから、良かったら今晩一緒にいてあげてほしい」ということで、部屋の隅に寝床を用意してもらった。布団に入っても富川さんとの思い出が反芻され、何度も涙を拭うのであった。

今こうして悲しみの淵に身を置きながら、色々な場所に一緒に出かけた事が懐かしく思い起こされる。

秋、錦繍の紅葉に彩られた安太郎山を登ったとき、「この山には何度も出かけたが、これほど晴れ渡ったのは今度が初めてだ」といって愉快に歩いた。尾瀬にも二度一緒に出かけた。私が伸縮の効く杖を持って歩いていたら、「随分年寄り臭い」と言って笑っていた。

富川さんが仕事の関係で群馬に出かけた際も一緒させてもらった。午前中に用が済み、「どこか行きたい所はあるか」と尋ねられ、前橋へ足を延ばしてもらった。敷島公園で朔太郎の記念館を覗いたときに、自筆の詩の原稿にに私が見入っていると、すぐそばで富川さんも黙って見ていた。市内の前橋文学館では、草野心平の展示を見ていたと思うと「細川知ってる、草野心平は蛙と会話が出来るらしいぞ」といってケロケロゲロゲロと楽しげに蛙のまねをしていた。

モーツァルトのコンサートにも二度出かけた。東京のコンサートでは、「細川、俺はあれを是非買っていこうと思う」と言って購入したモーツァルトの肖像画は立派な額に納め書斎に飾っていた。水戸のコンサートの帰りにはわざわざ大洗まで足を延ばし、割烹で御馳走してもらった。富川さんは出かけると必ずと言っていいほど御馳走してくれた。多少遠慮をしていると、「人間の食べられる量なんて限りがあるんだから、お前が腹一杯食べたところで俺の懐は痛まないから心配はいらない」と言うのが口癖だった。

私が初めて冬山に挑んだときにも、「これを使ってくれ」と かどた のピッケルをくれた。無事山から帰った報告に出向くと「これでお前も一人前の登山家だ」といって私の話す山の様子を興味深く聞いてくれた。

富川さんは常に責任を重んじる人であった。

「愛情も友情もその根底には必ず責任が存在する。責任を全うせずに主張をしてはならない」というのが持論であった。

私が神経衰弱になったときにも、「お前は人間としてはいい性質をしている。優しい。必要な時期に父親がいなかったというのがお前にとっての不幸かも知れない。あまり考えすぎるのは良くない。何も考えずに今はじっとしていたらいいだろう。じっとしているといつか動きたくなる時が来る。その時こそ書を捨てて街に出る時」だ。「お前は学力学力と言うけれどもお前のいう学力っていうのは学歴を言っているだろうか。だとしたら考え違いだ。大事なのは学歴や学力ではなく実力だという事を思い知らなければいけない。実力を養って自分を磨くことが大事なのだ。しかしどんなに銘刀でも鞘の中に納めてばかりいてはいけない。時には鞘から銘刀を出し、世の中にかざしてみるのもいいだろう。ただ、無闇に銘刀を振り回してはいけない。銘刀が安っぽくなるから」「お前は純粋だから、直球勝負をしたがる様だけれども、カーブを投げることを覚えてもいい。変化球の投げ方を知らないと世の中では苦労してしまう。」
と、励ましてくれました。

登山、音楽、コンピュータとあらゆる方面に精通していた富川さんは交際の範囲も広く、臆病な田舎者を社交界にデビューさせるがごとく、自分の友人を私に数多く紹介してくれた。富川さんとの交際の中で私も多少の柔軟さと強靱さを自分の精神に求めることが出来たように思う。

現在私の生活の糧はコンピュータであるが、コンピュータでは私は富川さんの弟子であった。私のコンピュータの基礎は富川さんに教えてもらったものである。冬の寒い時期に仕事帰りの私を駅まで迎えに来てくれ、毎日数時間コンピュータを教えてくれた。数年の後、私がパソコンと深く関わる仕事に就き、いつだったか私の担当するパソコンスクールに富川さんが参加したことがある。その時、「細川も偉くなったね、先生って呼ばれるんだから」といって笑っていた。「師匠にとって一番の歓びは、弟子が自分を越える事でしょう。そうした意味で私は師匠孝行ですね。」と言ったら更に愉快に笑ってくれたのもついこの間のことのようである。

一緒にモーツァルトの故郷のザルツブルグへ行くという約束はとうとう叶わなかった。
 もっと、もっと、師匠孝行をしたいと思っていたがあまりに突然の最期であった。
 残った私にとって富川さんとのこれまでの数多くの思い出は、私がこれからの人生を生きていくための大きな力になるのだと今しみじみと思うのである。

造り酒屋の当主の富川さんの葬儀はたいそう立派なものであった。

世の中は年末で慌ただしく活動していた。が、富川さんの葬儀は忙しく活動する世の中とは隔絶して静かな時間が流れていた。青く晴れた高い空には、線香の煙と一緒に読経が吸い込まれて行った。いくら唇を噛みしめても、拳を握っても、富川さんを失った哀しみが瞼を濡らし、うつむくとしたたり落ちる涙が地面にしみこんで行くのであった。

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