安全弁
細川映三
寺田寅彦と言う物理学者で随筆家をご存じだろうか?
「天災は忘れられたる頃来る」の言葉を残した、夏目漱石の門下生である。
彼の随筆の中に鎖骨と言うのがある。鎖骨は比較的簡単に折れる骨であって、鎖骨が折れることによって、ほかの大事な骨が折れるのを防ぐと言っている。体の健康にも増して心の健康を維持するのは難しいものだ…鎖骨のようないわば安全弁的なものを持つことは非常に大事だと言っている。
かかりつけの歯医者からも、お墨付きをもらっている僕の歯であるが、先日左下の糸切り歯と奥歯の間の歯の内側が突然に欠けてしまった。
舌でその部分を触ってみると、ひどく大きくぽっかりと穴が空いているような感じである。
近いうちに歯医者へ行って治療をしなければいけないと思いながらも、なかなかその機会をなくしてしまっている。
62と言う、この歳になっても、僕は働いている。
働いて収入を得なければ、生活が成り立たないからである。漱石先生が書いた小説にあるような、高等遊民には程遠い現実である。
経済的に余裕があるならば、漱石先生の足跡を辿って、スコットランドへ行ってみたいと思う。
そんな事を考えている時、僕の心は平穏である。が、ふとしたきっかけで咄嗟に不穏状態になってしまう。
他人の言葉が耳にうるさく響き、吐き気と頭痛に悩まされる。
僕のうつ病はもうどれくらい続いているのだろう。
哀しくなるくらい長い時を経ていると思う。
その間僕にとって幸いだったのは、心の拠り所になる友人がいてくれたことであろう。そして、漱石先生の言葉や、モーツァルトの音楽や生き様、ゴッホの不遇な生涯を知った事だろう。
僕は小さくてもいいので自分の花を咲かす生き方を切望している。
こうして、少しであっても活字に自分の思いを込める事が出来るというのは、僕の望む僕に近いのだろうか。
ただ怖いのは、何の前触れもなく欠けてしまった歯と同じように、ある日突然に心を支える大事な何かが折れてしまわないかを思う時である。
歯と違って心の中に空いた空洞は、想像もできないほどに僕に大きなダメージをもたらすことが怖くてたまらない。
働くということは、世間や組織と深く関わると云うことであるが、その関りを少しでも健全である様保つと云うのには、今の僕には大層な努力が必要なのである。
僕がこんな風に自分の弱い事をまで吐露するのは、似たような境遇の人がもしいるならば、「怖がらなくてもいいよ」と言ってあげたいと思うからである。
『漱石先生の草枕』にも書いたように、拙を守って生きていれば、きっと僕もあなたも自分を自分らしく生き抜く事が出来るかも知れないと思うのである。