見出し画像

車輪

小さな車輪と、大きな車輪があったとする。小さな車輪は動き始めから軽快に回転するだろう。それに比べて大きな車輪と言うのは、回転し始めるまでに大きな力を要する。が、回転し始めるとゆったり大きくスピードも備わって回転する。
 
この大きな車輪と小さな車輪のどちらかが良くてどちらかが悪いという比較の問題ではないのだが、人生においては、小さな車輪と大きな車輪の使い分けの判断が迫られることもあるだろう。
 
小さな車輪であれば、比較的容易に動かすことも出来、小回りも効くだろう。
それに対して、大きな車輪は動かすまでの労力が大きいので、瞬発性には欠ける。もしも大きな車輪をいつでも動かすことが出来る様にするとしたら、僕たちは常にアイドリング状態を保つ必要があるだろう。
 
ここまで車輪と言う言葉を使ってみたが、“車輪”を“気持ち”と言う言葉に置き換えてみて欲しい。
出来るなら大きな気持ちで爽快に人生を走り抜けてみたいと思う人は少なくはないかも知れない。が、あまりスピーディーに人生を走り抜けてしまおうとすると、自分の身近に心寄せてくれる何物かを見失ってしまう可能性もあるのではないだろうか。
そんな時には、少し鈍行でも気づきの気持ちを喚起し、生活感溢れる日常の中に身を置くのも良いだろう。
もしも小さな車輪と大きな車輪を自由に乗り回すことが出来たとしたら、愉快な人生を送れるかも知れない。
 
ただ、僕の場合は気持ちのコントロールが不器用なので、あまり世間に没頭すると流されてしまう事が危惧される。かと言って大きな気持ちでいられるかと言うと、自分自身以外を振り払って自分自分してしまう危険性を抱えている。正直、いい塩梅と言うものが全く分からないのである。
 
そうした時に、僕を支えてくれる友人知人は有難いものだ。彼らは僕が車輪を動かす際の潤滑油的な存在である。そして僕が心折れそうになった時には僕の鎖骨※1を折ってくれる安全弁的な存在なのである。
 
出来うる事なら人生軽快に生きて行きたいものだ。その為には身体は勿論の事、心も健康でありたい。
自分自身の中にある大小様々な車輪を上手くコントロールし、他人にも自分にも優しくありたい。
そんな事を考える時の自分は健康な自分である。反面、不健康な自分はそうした事を考える余裕がない。
 
車の運転をする際に、ハンドルやアクセル、ブレーキと言ったものには、“あそび”が無くては、車の運転はどれ程か難しいだろう。“あそび”の無い人生を送るというのも同じことが言えるだろう。
 
自分にとっての人生を如何に豊かに生きて行くかの必要条件と十分条件をよくよく考え、自分に嘘の無い人生を送って行きたいものである。

※1鎖骨については、寺田寅彦の鎖骨を読んで頂きたい。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?