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漱石先生の命日に思いを馳せて

疲れたなー
心も身体も…

今日12月9日は、敬愛する夏目漱石先生の命日だ。
先生の生きた時代と、僕の生きる時代、文化や文明は大きく異なるかも知れない。が、先生の予見した将来というものの中で、僕は生かされている…そんな気がしてならない。

地位も名誉も権力も忌み嫌った先生の如く、僕も、菫ほどに小さくてもいいので、自分を花咲かせたいと思い続けながら生きているが、自分の思いに金力が追いつかず、苦しい日常から脱却する事が出来ないでいる。

その要因を、自分ながらに分析してみると、僕は綺麗に人生を生きていたい思いが強いのかも知れないと思う。

ここで言う綺麗とは、心である。
一体、何を持って綺麗と定義しているかも、詰問されれば返答に窮するのであるが、兎に角、嘘の無い綺麗な自分でいたいのである。

先生がその人生を、僕の言う綺麗なそれで生ききったかも判然とはしない。もしかしたら先生を僕が美化して見過ぎているきらいはあるかも知れない。

もっと人間臭く煩わしい世間と関係しながら生きていたかも知れない。

先生の晩年の境地を表した、則天去私の思いに到達したいと言うのは、先生と僕の共通の願いなのだ。僕の中に生きる漱石先生を失ったら、僕は僕でなくなってしまう。それはひどく哀しい現実だ。だから僕はどんなに苦境にあっても、自分にも他人にも優しくありたいと願うのだ。

それが、自然体な自分であったら、僕の人生はどれほどか価値あるものであろう。

冒頭で疲れたと言うのは、今の僕の正直である。
こうして、ガスを抜かないでいては、僕は不自然な膨張をして爆発してしまう。

60を過ぎても働かざるを得ない自分が恨めしく思うのも僕の正直である。それと並行して、こうして活字で自分を表現出来ることに喜びを感じる自分も又正直な自分である。

もしも運命と言うものがあるのだとしたら、今はただそれに耐えて、向かいたい自分の方向を見失わない事が大事なのだと思う。

僕は、菫程にも大きくはないが、自分の花を、もしかしたら咲かせつつあるかも…と思うと、力が湧いてくる。

幸いに、そうした僕を理解して受容れてくれる人が、これ迄の人生の節々にいてくれた事は、僕の大きな幸いである。

僕が僕である為の自分像を分析•研究する事は、僕の生涯をかけて行うべき使命だと思わずにはいられない。

と、そんな事を思う、漱石先生の命日である。

2022.12.9

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