見出し画像

2021.06.08 深夜

自分はどうにもnoteのようなコンテンツには向かないのではないか、という話をしようとして、書いているうちに何が言いたくなったのかわからなくなったこの文章を、戒めとして初投稿し、記録します。

実際に文字を打つまでは、初めての投稿だから、などと言うことは気にせずに、最初から何かしらの事柄について記そう、と思っていた。思っていたのだけど、書けば書くほど陳腐になってしまう。冗長だし、別段新しいものでも、何でもない。私という個性自体は、現時点で何ら価値を認められたものではないので、似たような事を自分が記事として書き記すことにも、今ひとつ価値や意味を見い出せなかった。

口頭で何の予定もなしに四方山話をする場合はさておいて、私は人様に何かを説明する際には、準備や想定で足場を固めるタイプだ。作成した文面、あるいは資料を何度でも読み返し、不明点を潰せるだけ潰し、裏付けで肉付けを行い、自分で自分に「説明」ができたと判断した時点で初めて公開に踏み切る。今これを何の推敲もなしにつらつらと打ち込んでいるのは、酔っているからだ。きっと。

このコンテンツは見出しを作ったり、画像やリンクを挿し込んだり、フォントに装飾を施したり、noteという名称に私が勝手に持っている印象に反して多機能なエディタだと思う。実際に他の方が作成した記事もいくらか拝見したことはある。ただ日記のように書き連ねたものも、まとめブログか何かのように随所にリンクや画像を散りばめ、体裁に工夫を施したものも見た。きっとこのコンテンツに込める想いも人それぞれなのだろう、完成度や粒度も実に多様だ。使い方次第で手軽ながら奥深い楽しみ方ができるとは思う。

自分なら一体このコンテンツで何を為すか。言葉を並べて何かを表現する、そういったものには、自分がやるにはつまらないものしかできないだろう、とやる前から匙を投げてしまう。さして文学的な表現が出来るでもないし、面白い文章が作れた事もない。とはいえ様々な要素を盛り込んだ何かしらの説明/解説をするには、おそらく他のツールやコンテンツを選択してしまうだろう(例えばPowerPointのようなもので資料を作り、必要に応じてYouTubeで説明する動画を作る、といったようなもの)。慣れの問題もあるだろうが、あくまで読み物の延長線にあるものを提供し、楽しんでもらうツールとして、このコンテンツを見ている。ここまで書いて気が付いたが、きっと偏見もある。自分が説明可能な事柄に関して、きっとnoteを普段見るようなユーザには需要がないだろう、と勝手に思い込んでいる。やってみるものだ、これだけでも自分にはある程度の価値はあった。

さて、こうして何も考えずに書こうとしても、結局読み返し、推敲を始めてしまう。ある程度内容を直しだすと、結局この文章も大した意味がない、と感じて削除してしまいかねない(実際、こうしてここに文を打つのは三度目くらいだ)ので、このくらいで今日はおやすみをいただこうと思います。


ここまでお読みいただいた方、もしいらっしゃいましたら感謝します。
次にこのような迷走をするのが何時になるか、私も見当がつきませんが、そのような機会があったら、またお会いしましょう。

私は哀染(あいぜん)と名乗っております。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?