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姿の見えない「正しさ」なんて、おれはいらない。

6月の半ばに、不注意で右足の甲の骨を1本折ってしまいまして、それから検査・入院・手術…と今まで経験したことのないことがいっぺんにやってきて気が付いたら1か月以上が経っていました。退院直後こそ、こんなに痛くてはたして仕事になるのだろうか…と心配でしたが、外科は日にち薬とはよく言ったもので、現在では座って仕事をするぶんにはもうほぼほぼ支障がなくなってきております。人間の体ってすごいね。大変ご心配をおかけいたしました。まだ松葉杖生活ではあるんですが…両足で歩けるようになったらまず近所のお寿司屋さんに歩いて行きたいです…今はそれすらできない…もどかしい…

まあ、退院直後から痛い痛いとは言いつつもなんだかんだで絵を描いたり、ピアノもペダルを折れてないほうの足で踏みながら弾いてたりしてはいました。

しかもこれが、驚いたことに、今まで一度もやったことなかったのに意外と普通に踏めるんですよね…なんならセオリー通り右足で踏んでた時より弾きやすいまである。

右で踏んでた時は手で鍵盤をおさえきってから、つまり発音に対して少し遅延させる形で踏むという基本動作がどうしても苦手で、手と足が同時に動いてしまうことがしばしばでした。20年以上習っててもなかなか直らなくて悩んでいたんです。

それが、左足で踏んでみたら、意識せずともごく自然にできるではありませんか。イメージしたとおりに足が動いてくれるんですよ。こんな感覚初めてだったので驚きました。

え????
あんなに悩んでいた20数年間はいったいなんだったの…
なにこれ?なんでなん?

左足でダンパーペダルを踏むと体が正面を向かなくなるから弾きにくくなるのではないかとよく言われていますが、それも私は正直別になんともないですね…。(プロのピアニストになるとかだったらさすがにそれではあかんと思いますが、私の場合は趣味なので)

というか、左足に重心が乗っている今のほうが手指の動きも全体的に安定しています。右足に重心が乗っていた時にはなかなかうまく弾けなかった箇所が、左に重心を載せて弾くと難なく弾けるようになったり、そういうのの連続なんですよ…え、ほんとに、何…?直ってもずっと左足で踏もうかな…?

ただしそれやると、一つ懸念があるのは真ん中のペダルを踏みながらダンパーペダルを同時に踏むというのが難しくなることなので、そういうシチュエーションが出てくるときはやっぱり右で踏んだほうがいいのかな。

んー、とりあえず右足が直ってからいろいろ試してみよう…。
今はまだ体重掛けちゃいけないのでとりあえず左足だけで。

という感じで、骨折を機に思わぬことに気付いたりもしてしまったのでした。

在宅アシの仕事も、結局入院日にかぶった1回だけどうしてもできなくて休ませてもらったけどあとは普通に出てます。静養せよと言われても、全く絵の作業をやめる、ピアノも弾かない、というのは、私にはどうしてもできませんでした。何もしてない自分が想像できなかった。

そして止まっていた仕事を再開しつつ、「姿の見えない「正しさ」なんて、おれはいらない」という漫画を描きました。『僕らには僕らの言葉がある』の、真白とノナのお話です。

相澤真白というキャラクターは、基本的に、意識して自ら声を出して話すということをほとんどしません。

①第一言語が日本手話である。
②聴覚口話法にもとづく授業のない教育機関で幼年期~義務教育期間を過ごした。
③家族のうち半分は聴者であるが家庭内の公用語は日本手話もしくは書記日本語であるため、真白が音声日本語を使ってコミュニケーションをする習慣はない。

全体的に、同じく第一言語が日本手話である母親の影響が大きいです。
そして②③に関しては母親が子供時代に受けた聴覚口話法による教育に対して非常に強いトラウマをもっており、真白には同じ経験をさせたくないということで、口話をしなければならなくなるような状況を徹底的に回避してきた行動の結果なので、真白本人の選択ではないという意味では、見る人によっては賛否が分かれるところだと思います。

もしも、母親が徹底的な回避行動をとらなかったら。
もしも、声で話す訓練を受ける機会が十分に与えられていたら。
真白はもしかして音声日本語でも話せるようになっていたのではないか?
母親の行動は、真白からその可能性を奪ってしまったのでは?

そういう印象を持たれる場合もあるなあと、ふと思ったことがあります。


でも結局その”可能性”っていうのは、要するに、声で話せるようになってくれたほうが”聴こえる社会としては”うれしい、助かる、ということだから。それに対してどう思うか、どこまで迎合するかどうかは、それこそ人によって判断が異なるものだと思います。

真白のほうから見ると、声で話すってどんな感覚なんだろう?
気を付けなければいけないのは「聴覚障害者は」「ろう者は」といったような大きな主語にしてはならないということですよね。相澤真白という個人はどうなのか、であること。(そういう意味で、「おれは」という語り口にしてます。)

聴覚を活用するというすべを持っていない相澤真白の視点で考えた場合。
声を出す、出さない、この切り替えについては自分でコントロールできる。
ただ、自分から出ていった声が「どうなのか?」「どうなったのか?」ということに関しては、自分で直接その声自体の質感を確かめることは不可能なので、必然的に他人の評価に依存しなければならない。

これって、客観的に見るとどんなに不明瞭な発音だったとしても相手が「上手だね!」とうれしそうに言ったり、逆に、ちゃんと言っていること自体は伝わっているのに「変な話しかただね、そんなんじゃ全然だめだと思うよ」と言ったり、言わずとも、反応がよろしくなければ、その評価を基準とするしかないということですよね。自分ではそれがはたして事実なのか…いや、たとえ事実じゃなかったとしてもですよ、”それはそれとして、自分としてはどう感じるのか”ということを直接声の質感を参照して確かめようがないのだから。

むこうから情報を与えてはくれるけど、間引きがあたかも当然のように行われ、しかも与えられた情報に対して常に受動的であることを迫ってくる。これってすごく怖いことのような気がする。

真白は主にこのことについてを、「姿の見えない「正しさ」」と形容しています。判断する基準が常に聴者の側にあり、真白のほうに主導権が渡されることが決してない「正しさ」。それに対して抵抗感を持つのか、別にそうでもないのかは人によると思いますが、相澤真白というキャラクターは抵抗感を持っている、という軸がある上での話です。


ノナに出会ってから初めて声を使って人を呼ぶということを(ノナに対してだけですが)し始めた真白ですが、それは決して「正しく」ありたいからではありません。ノナを声で呼んだら、たとえ自分の姿が見えなくても気づいてくれる。こっちを見てくれる。ただその事実を自分の目で確認できればそれでいいのです。それ以上の領域に踏み込もうとすれば、”自分で確かめる”というカードを手放さなければならなくなってしまいます。

それくらい我慢しろよ、大げさだなと思われるかもしれないというか、きっと、真白に対してそう思っている人もたくさんいるんでしょうね。でも真白自身にとってはそれは、尊厳を手放すことでもあるので、たとえなんと思われようと嫌なものは嫌だ、と思っているんじゃないかなと私は考えています。たとえなんと思われようと嫌なものは嫌だ!そういうのって、誰しも何かしらありません?

ノナは真白がたとえ上手に発音できてたとしてもわぁーすごいね、上手だね、とは言わないし、逆にあまりコンディションがよくない時でも表情ひとつ変えずにただ真白を見るだけです。真白にとって重要なのは「正しく」発音できているかどうかではなく、呼ぶという目的が達成されているかどうかということなので、それを基準に動いているということだと思います。勝手にゴールを設定してそこに真白を引きずっていこうとするのではなく、真白の求めていることに合わせてゴールの位置を設定するようにしてるわけです。これは決してノナが真白を甘やかしてるのではなくて、真白からものごとの判断の主導権を不当に奪わないようにしているんだと思うのです。真白がノナをよく見ているのと同じくらい、ノナも真白のことをよく見ているんでしょうね。だからそういうことができる。

はたからみるとじゃれてるようにしか見えないと思うんですけど、内面的にはそういう感じのことも考えながら描いていたという話でした。

頭の中の言葉の混雑が解消されてきましたので、このあたりで終わります。読んでくださってありがとうございました。

詠里



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