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取材記_20210313

※情報保護の観点から、個人名や具体的な練習内容・練習場所については記述しておりません。

こういう仕事をしていると、行ったことがない土地に行く機会が突然現れることがよくあります。今回もそうでした。色々とご縁に恵まれて、ろう野球(耳が聴こえない人が行う野球です)の取材をさせてもらえることになり、三重県某所へ向かいました。

今回の取材の目的は何かというと、
①ろう野球というスポーツの特性(聴者の野球との違い)を学ぶこと
②拙作「僕らには僕らの言葉がある」の主要人物の1人・相澤真白のようにろう野球 / 聴者の野球の両方の経験がある人から実際に話をきいてみる、の2点でした。

これまでまあまあ色々描いてきましたが、事実確認という意味では実はまだそのような段階だったのです。特にろう野球については外からの情報収集ではその実態をつかむことがほぼ不可能、このままでは作品を描き進められないと感じていましたので、そこを少しでも解消できればと思って取材に臨みました。

「聴こえない」ということ

「聴覚障がい者」というと、聴者は多くの人が「全く音が聴こえない・話せない状態の人」を真っ先に思い浮かべるのではないでしょうか。私も身近に聴覚障がいを持つ人と関わりがなかったせいもあって、この題材を追いはじめるまではそのように思っていました。相澤真白という聴覚障がいを持つキャラクターが130デシベル・スケールアウトという難聴の中でも最も重い難聴という設定なのも、正直に言うと極めて初期段階の認識によるものです。(注※この設定は色々調べたあとも、あえて変えていません。聴覚活用を全く行えない状況で聴者の世界に入っていく選手として描いてみようと新たに思ったからです)

しかし実際は…「全く音が聴こえない人」・「補聴器や人工内耳を使うと聴こえる人」・「聴者に比べると聴こえにくい人」など大まかに段階を設定することはもしかしたらできるかもしれませんが、その段階と段階の間には非常に細かいグラデーションがあって、ひとくちに「聴覚障がいがある」と言ってもその人によって状況は全く違うので「聴こえない」という部分だけを見るのではなく、その人自身がどういう状況なのかということをよく見る必要がある。

取材に行くまでに、なんとか自分の力でそこまではたどり着くことができましたが、実際の現場に赴くと、あ、しょせん、頭では分かった気になっていただけだったのだなぁと思い知らされることになりました。

ろう野球というスポーツ

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前述したように、「聴覚障がい者」とひとくちに言ってもどういう状況なのかは人によって全然違います。今回取材させて頂いたチームの選手の方々も、どれくらい聴こえにくいのか?手話で話す人なのか口話で話す人なのか?などといった部分がそれぞれ少しずつ違う人たちの集まりだと教えてもらいました。

聴者同士でも、言ってることが分かりやすい人、分かりにくい言い方をする人、いろいろいますよね。なんかあの人、悪い人じゃないんだけど何を言いたいのかよくわかんないんだよな~…苦手だな~とか(私も話がわかりにくいほうなので、まったく他人事ではない…。)逆に、私が言ってること、あの人全然わかってくれないんだよな~…とか。でも、そこに目をつむってもある程度はなんとかなってしまうんですよね。なぜなら、究極、コミュニケーションの手段(=音声日本語)は聴者同士みな同じなので、言ってること自体はよく分からなくてもこれまでの経験則などで事態をカバーできることがほとんどだからです。何もしなくてもなんとかなってしまうので、あんまり深刻に考えたり、本気でなんとか解決しようと思う人はそんなに多くない。「聴こえる」とはある側面から見ればそういうことでもあると、私は思っています。

聴こえない人同士の間で起こる「相手の言ってることがわからない」「自分の言っていることが伝わらない」は、それとはちょっと違います。たとえば手話が母語であるという人に、口話が主である人がそのまま話しかけても話がなかなか通じませんよね。感覚の問題ではなく、シンプルに物理的な問題としてです。逆もまたしかりです。お互いに異なるコミュニケーションの手段を用いているので、そこをきちんと解決しようとしなければ永遠に平行線になってしまいます。

ろう野球の試合では選手間で聴こえのレベルに不平等が出ないように補聴器等の装用は禁止されているそうです。そして共通のコミュニケーションの手段として手話を使うことになるので、補聴器等を装用している人はそれを外した状態でのプレーに慣れたり、手話を習得する必要があります。

聴者から見るとどうしてもドラマなど創作物の影響で「耳が聴こえない人はみんな手話を使う」という印象がありますが、実際はそんなことは全然なく、むしろ手話を覚える機会がなかったという人もたくさんいらっしゃいます。補聴器や人工内耳を装用して聴覚活用(もともと残っている聴力を生かして音声から言葉を習得したり、発話を習得すること)をしながら聴者の学校や野球チームなどに所属してきた人も少なくありません。

…と、頭ではわかっていても実際に目の当たりにして改めて驚いたことのひとつは、「聴者でも問題なく聞き取れるレベルで口話ができる人がかなり多い」ということです。聴者の私が筆談で投げかけた質問に、聴こえない選手や関係者の方が口話で答えるというシーンが多くありました。あまりにも自然に口話で返答されるので、時々聴こえていないということを忘れて普通に私も声だけで相槌をうったり話しかけてしまったのも1回や2回ではありません。

練習中の様子を見ても、大きな声が時おり響いていました。そこだけを見ると、今まで取材してきた聴者の野球の現場とそれほど変わらない光景だなぁと思ってしまうんですよ。おそらく、何も聞かされずに練習の場面だけを見ていたら、みんなほとんど音が聴こえない状況でやっているとは気づくことができなかったと思います。「聴覚障がいは目に見えにくい」と言われているのはなぜなのか、改めてよくわかりました。聴者側が勝手に「耳が聴こえない人はみんな手話を使う」=「見てわかりやすいものだけが障がいである」と解釈してしまっているせいで、見えにくくなっている部分もあると思います。

ろう野球をするにあたって初めて「全く聴こえないという環境に慣れないといけない」「普段は自分とは違うコミュニケーションの手段を使っている人ともうまくやっていかないといけない」という課題に直面した選手もいて、それはそれで大変なことのひとつのようです。私が取材した段階ではすでに皆さんかなり打ち解けている感じに見えましたが、そこにたどり着くまでそれぞれにどんな葛藤や苦労があったのかと思うとできれば1人1人にそのことを聞いてみたくなりました。(本当に信頼を得られなければそんなところまで深く入ることはできないですし、練習中ということもあって、今回はそのようなお願いはしませんでしたが…。)

前置きが非常に長くなりましたが。
具体的に、聴者の野球と、ろう野球は何が違うの?という部分について教えていただいたことを書きたいと思います。

それは「情報の伝達に対する意識の持ち方」です。
細かく見れば他にもありますが、突き詰めるともうこれに尽きるのではないのかと思いました。

聴者の野球では、基本的に情報伝達のきっかけは音声によるものです。聴者は声をかけられた時、まず、それが誰に向かって出されている声なのかを内容や音の方向などから瞬時に判断します。無意識にです。自分に向かっている声ならば続きを聞こうという意識になるし、そうでなければ自分にも関係のあることとして聞くのは自然には難しい場合がほとんどです。それでも問題なく試合が進むのは、耳が聴こえているから、無意識にでも選手各自がその場にいたままで平等に音からの情報を共有することができるからです。

ろう野球の場合、まず情報伝達のきっかけを作る部分からして聴者の野球とは経路が異なります。話をしようとしている人と伝えたい人同士が近くにいれば「ねえ、ちょっと聞いて」と呼びかけることもそれほど難しくはないですが、たとえば練習中とかに本塁から外野の人に何か言いたいことがあるとしましょう。聴者の野球のように大声を出しても聴こえませんし、距離が遠すぎて身振り手振りで呼びかけても気づいてもらえる可能性は低いです。

そんな時どうするのかというと、周りの他の人が、話しかけようとしている人から近い順番に後ろに向かって話しかけたい相手まで「こういう指示が出ているよ」と伝えてあげるのです。試合中でも、指示やサインを出したい相手が自分から遠い場合は近くにいる選手の手を借りながら伝えたい相手まで確実に伝播させるという方法をとるということでした。

練習中の様子を見ていても、たしかにそういったシーンを何度も見かけました。音のない会話は音声のように1人から全体に瞬時に情報を共有することはできませんが、選手全員が協力することで少ない時間で全体に共有することは充分可能なのです。

これは野球をしているときに限った話ではないような気がしますが、「今自分が受け取っている情報が全体に共有されているかどうか?」ということに関しての意識が、聴こえない人同士の集まりでは相当に高いということがうかがえました。聴者ばかりの集まりだと、「自分が聞いてなくても誰かが聞いてるから別に大丈夫だよね」みたいな空気になることがありますけど(良くないことですが)、そういうのがないといいますか…。なるほど!と思いました。

もうひとつはとにかく「見える」ようにするということ。
聴者の野球では、捕球などの際、自分がやりますという目印になるように声を出すという習慣があります。ろう野球ではこういった声を出してもその声を相手は耳で聴くことができないので、手を大きく上げる、動かすなどの動作をして、はっきりと目で見えるような形で相手に伝える必要があります。これに関しては、些細なことですが、意識しないと結構難しそうと思いました。特に普段は聴者のチームでやっている選手はそちらとは違うことを求められますので…。個別にインタビューした選手の話では、拍手などの動作もろう野球を始めてからは「見える」ように今までより大きくしようと意識するようになったとのことでした。そういった一人一人の取り組みが、音がない状況でも円滑な情報の伝達・共有を可能にしているのがわかりました。

色々な人からお話を聞いて、真白はどうだっただろうな?という部分がちょっと見えてきたなぁと思います。真白の場合は逆に、ろう野球から聴者の野球にいったパターンなので、まず、誰も積極的に情報を共有してくれない、見えるようにしてもらえないという壁にぶち当たることになったでしょう。ろう野球では当たり前のようにみんながしていたことなのに…と。

でもそれって、察してほしいと思っているだけでは絶対にわかってもらえなくて、自分から「こうしてほしい」と伝えてみて初めて、「ああ、そうだったのか」と気づいてもらえることかもしれませんよね。だいたい往々にして、考えてみれば当然と思うことほど相手には伝わっていなかったりするものですから。

その壁に当たった時に真白はどうするのかなという部分も、さらにヒントをいただけました。

「自分から積極的に行く」

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インタビューしていてもう一つ印象的だったことがあって、それは「自分から積極的に行く」というような話を何度も聞いたことです。これは情報伝達に対する意識の高さと関連している部分もあるのかもと思いますが、聴者が言う場合の「自分から積極的に行く」とは少し意味合いが違うように感じました。

聴者同士のコミュニケーションは、「言わなくてもわかって当然」「そこは察して何も言わないべき」みたいな見えない制約に縛られた場面というのがよくありますよね。そういう場で、ぐいぐい積極的に行く人というのは敬遠されがちですし、なんとなく周りの会話・声の調子から察するということを求められがちです。「相手の言っていることをちゃんと理解したい」「自分の言っていることをちゃんとわかってほしい」という思いからの行為が、時としてうっとうしいと思われてしまう。

でも聴こえない人の立場で考えると…見える範囲から読み取れる情報の量にはどうしても限界がありますから、わからないと感じたことは自分から確認しに行かないとずっとわからないままで終わってしまったり、言いたいと思ったことを言わせてもらえないまま会話を流されてしまう可能性があるので、受動的でいるというのは周りから自分だけが取り残されてしまうという、コミュニケーションにおいては死活問題になるアクションなわけですよね。だから、そうならないために自分から積極的に話しかけたり行動を起こすというのは、至極当然な発想のように思います。

私は聴者ですが、「言わなくてもわかって当然」「そこは察して何も言わないべき」みたいな部分を察するのがものすごく苦手で…今まで何度も周りの人とうまくいかなくてしんどい思いをしてきました。おそらく私の察する力が足りず、見当違いなことを言ってしまったのか、無視されたり笑いながら会話を流されることもしばしばありました。そのたびにえ、なんで?と思うことはありましたが、かといって理由を聞く勇気もなくて、結局よくわからないままいい大人になってしまいました。こういう仕事をしているのに、自分から積極的にどんどん突っ込んでいけないのは今でも無視されたり笑ってごまかされるのが怖いからなのかもしれません。

たぶん今回のインタビューでも、この人は何を言っているんだろう…と思われた場面が色々とあったと思います。謹んでお詫び申し上げます。でも、分かりにくい時は分からないとちゃんと伝えてもらえたことが私にとってはすごくありがたかったです。黙って無視したり、笑ってごまかしたりしないで、分かるまで言いなおす機会を与えてもらえるということが本当にありがたかった。聴こえない人同士の会話では当たり前のことなのかもしれませんが、聴者同士の「察して」文化に辟易しながら生きてきた私にとっては自分のペースを守りながら話をさせてもらえるという貴重な経験でした。

話がそれました。

とにかく、聴こえない人との会話は、相手の言っていることを理解したい、自分の言っていることをわかってほしいという意思が前提での会話だなぁと感じました。そこがかみ合って初めて会話になるというのは聴こえる聴こえない関係なく基本的な部分のような気ももちろんするんですが、そのわりには聴者同士のやりとりだとどうも雰囲気にまかせるというかなあなあにされがちな部分だったりもしますから、余計にそう思ったのかもしれません。

帰りの車の中での話

球場までの行き帰りを協会の方に車で送迎していただいて(本当にありがとうございます!)どちらも選手の方と乗り合わせました。行きはまだ初対面だったこともあってほとんどお話はできませんでしたが、帰りの車の中では色々とお話をすることができました。
選手の皆さんが後ろの席から助手席に座っている私に声で色々と話しかけてくださって、私はホワイトボードに書いて答えるという形でお話をしました。

練習の取材中にも「聴こえない人は、聴こえない代わりによく見ている」という話を聞きましたが、このときにもそれを実感する場面がありました。

実は、今まで車酔いなんてほとんどしたことがなかったんですが、この時は疲れていたのもあって三半規管が弱っていたのか、ホワイトボードに文字を書いているうちに途中から急激にしんどくなってきてしまいました。

で、そのことをまた、ホワイトボードに書くわけですけど、もうしんどくてそれも完全には書ききれず…しかもこんな高速道路のど真ん中でそんなこと言われても困るのでは…と思って、誰にも見せずに消しました。その後、水を飲んだり周りの景色を見てたらだいぶ楽になったので、ああよかった…迷惑をかけずにすんだ…と思っていたのですが、後ろの列に座っていた選手の方が「さっき、ボードに車に酔ったかもって書いてたけど大丈夫でしたか?」と声をかけてきてくれたのです。

びっくりして一回では読み取れなくて、何回か聞き返してしまいました。私は見せていないつもりだったけど、気づいて心配して下さっていた人がいたわけです。よく見ているなぁ~、すごいなぁ…と率直に思ったのと同時に、見えていないと思い込んで言わずに消してしまった自分がなんだか恥ずかしくなりました。あの時も言いましたが、本当にありがとうございました…!

音のある世界に戻ってから

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取材を終えて、大阪に戻ってきた時、周りの音が行きの時とはちょっと違って聴こえました。うるさっ!て思ったんですよ…色んな会話が音として四方八方からいっぺんに聴こえてくる。滞在した場所が静かなところだったのと、その日一日中、私自身は音の少ない、ほぼ1対1の会話に終始するということの繰り返しだったせいなのかもしれませんが…。


でも、今うるさっ!と思っている音は誰かが誰かと1対1で話したくて話していることの集合体なのだと思うとただの騒音と片づけるのも勿体ないなと。不思議な気持ちになりました。

私はこの先も体感として音のない世界を知ることはきっとできないのですが、こうやって少しずつ音のある世界に対しても見え方を変えていけたらいいなと思います。


あと、もうひとつ、帰ってきてからふと思ったことがあって…
ipadのでかいやつ買いなおそう…。
もともとproを持ってたんですけど、弟のパソコンが壊れた時にあげてしまって…。私、左利きなので、書いた文字の上に常に手がかぶさってしまうんですよね。ホワイトボードだとそのせいで文字が消えてしまったりしてちょっと不便でした。長らくアナログの筆記から離れていてすっかり忘れてしまっていました。

最近は音声認識アプリとかもいいのがあるみたいなので、なおさらipadのほうがよいのではと…。買いなおしまじめに検討中です。。。

ありがたいことに、今後もろう野球との関わりは続いていきます。関係者の皆様、選手の皆様、改めてになりますがこの度は本当に貴重な機会をいただいてありがとうございました。至らない点も多い作者で恐縮ですが今後とも何卒よろしくお願いいたします。

ここまで読んでくださってありがとうございました。

詠里


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