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【頂に触れる】

「失礼します――」

会議室に入った風炉はフローロの姿を見つけて、そして他に誰もいない事に気がついた。

「お疲れ様です、風炉さん」

「……お疲れ様です」

報告レポートの進みが思ったより早く、スケジュール帳に記載された開始時間にはまだ十分以上の余裕がある。
そんな自分より早く来ている課員がいるとは思ってもいなかったので返事がわずかに遅れた。

「私もついさっき来たばかりですから」

「そうでしたか……。いえ、かなり早く来たつもりだったので」

「ふふ」

柔和な声、穏やかな表情、フローロ・ケローロという人物は一貫してそうであるように思う。

「電脳操作には慣れました?」

「それなり、ですね」

十全に使いこなせている、とは言い難いのは事実だ。
電脳通信に対するレスポンスやデータベース閲覧の操作性は十分に理解しているし、いざ我が身になってみて使い勝手の良さも体感している最中だ。
電脳普及率の高さも腑に落ちたところで、それでも自分の手を動かした方が早い作業もまあまあある。

「文字入力はまだ手を使ってますよ」

思考が混ざり込んだ文章はノイズどころの騒ぎではなく、気付いて狼狽えた時の心情が羅列された数行には目も当てられない。

「慣れるまでは練習が必要ですね」

「そうですね。ちなみに私は未だに苦手です」

複危班に異動して調査が主業務になってから報告書を提出する頻度が増えたらしく、それなりに苦労をしている様だ。

「少しずつ出来る様にはなってきてますけどね」

彼女が電脳化したのはD案件の後――全身義体化も併せて行ったと報告書には記載されていたはずだ。
脳以外の全てを入れ替えたとも取れる行為。
その原因、あるいは切っ掛けとなった事象も、それに関わっている人物についての情報も、風炉には開示されていた。

「――怖くありませんでしたか?」

不意に口から出た問いかけは会話の流れを無視した突拍子もないものだった。
意味不明な言葉だと自覚し、説明をしようとして、どのように伝えるのか分からない。
口を二度三度と開いて、言葉になったのはフローロの方が先だった。

「高度電脳化と全身義体化が、ですか?」

察しが良い、いや、良すぎる。
背筋に冷たいものを感じた直後、電脳通信が繋がっている事に気付いた。
うまく言語化出来なかった思考が伝わっていたのかもしれない。

「怖くはありましたよ。自分が消えてしまって別の何かに置き換わってしまう、とか……」

フローロはかつてヒトではなく、現実改変生成物の一つだった。
自我と呼べるものは意識の集合体によって編み上げられた虚像であると認識していたし、それはある意味で事実である。

「ですけど」

自分の存在を肯定されて、保証されて、少なからず後押しになった事は今になって多少、わずかには、認めても良いかもしれない、その程度には。

「私は私のままでいられましたから、それでいいのかなって」

結果論であるそれは思いの外納得出来る答えだった。
カエルの目を模したアンテナはどこかとぼけた表情で、それはフローロの印象の一つで変わりがない。
柔和な声、穏やかな表情、フローロ・ケローロという人物は一貫してそうであるように思う。
風炉は自然な動作で人口声帯の部分、アンテナに該当する機器が埋め込まれたそこをするりと撫でた。
会議室の外から足音が聞こえてくる。
両耳が揺れる。


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【頂に触れる】

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