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【カーボンコピー】 Cp.5

新簗風炉が電脳化手術を受けた時、具体的に印象に残る事は特になかった。
大仰な手術台へ載せられることも、混濁した意識のまま頭を苦痛に苛まれることも起こらなかったからだ。
――電脳とは何だろうか。
神経へナノマシンを結合させ、電気信号によって外部との情報通信を可能とした脳のことだ。
意識そのもので情報を知覚することが可能で、聞こえない声で会話し、見えないデスクで作業が出来る。
風炉は施術の前に、院で渡された端末で電脳の資料を確認した。
ナノマシンと聞いていたものは思いの外マシンの体を成さない、パズルピースのような切片である。
これは補体系の様な挙動を取るタンパク質の微小なかけらで、するすると脳の血管へ流れ、ある切片がある切片を、その切れ端が免疫細胞を、切片の一端が神経の細胞膜を編み込み、少しだけ延長された神経細胞へと形を変える。
そして体のどこか――風炉であれば、首に付けた人口声帯に隠れる場所――情報をやり取りできる窓口となるアンテナ端子を介し、延長された神経と外部を通信させるのだ。

ナノマシンはアレルギー反応を起こすこともあるので、念のためいくつかの検査を受けている。
しかし構成物には金属が含まれていないし、毒性のある成分もこれといってない。
麻酔と電脳の同意書にサインをしてから、大して待たされることもなく風炉は乾いた眠りへついた。
ちょっと大仰な予防接種くらいの手続きで、人間の脳は通信機に変わるらしい。
眠りに落ちる直前わずかに感じられたのは、首から伝わり、頭を冷えたものが覆っていくような感覚だった。
頸動脈を流水ですすいだ時の様なありふれた冷たさだ。
これでどう変わるのだろう。
……自分の何が変わるのだろう。
そんなうたた寝の感覚の中で思い出したのは、かつて抱いていた電脳化への忌避の正体。
それは自我の変化への忌避だった。
言葉にできなかった不安が、ちりりと見えた。
それに目をつぶってまで電脳を施術を受けているのはどうしてだろうか?
もしかすると――"カーボンコピー"の捜査で経験したことが何かの火打石になったのかもしれない。
誰かの真実が捻じ曲げられる事、それがいずれ自分へ降りかかる事の忌避間が、不安な気持ちに勝ったのかもしれない。
……そうだろうか。
………………。


********************


「おはようございます。体は無理に起こさなくていいですからね」

看護師に声をかけられる。
瞼を閉じて開いただけの、昼休みの束の間のまどろみにも似ている味気ない目覚め。
自分は、驚くほど自分自身だった。
新簗風炉は施術を受ける前と何一つ変わっていない。
むしろ施術に失敗したのかと感じて、胸の奥が少し閉まったような不快感を受けて――それが杞憂だとすぐに理解した。
頭上で光がひらめくようなものを感じ、眉をひそめながら上を見て、天井以外には何もない。
しかし通知音は聞こえてきて、どこからかと探ってみれば頭の中だった。
ゆっくりと寝返りをうって、硬そうなパイプ椅子に足を組んで座る白髪の女性の姿を認める。
その横には――メロンを頬張る黒髪の女。

「状況を説明しよう。君が眠っている間に事態は少し悪化しているよ」

「さくっと終わらせたら、ボクが電脳の使い方を丁寧にレクチャーしますよー。手取り足取り――」

「蘇芳さんは何もしないで」

祇園寺蘇芳が薄笑いのまま口元を拭った。


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『状況を確認しよウ』

電脳通信から聞こえてきた祇園寺ローレルの声は思ったよりも鮮明だった。
風炉は、汚染区画付近までの移動中に軋ヶ谷から受けた簡単なレクチャーを受け、簡単な情報通信は一通り出来るようになっていた。
筋が良いねと褒められたのは少し気恥ずかしい。

『まず我々が"カーボンコピー"と呼称する連続殺傷事件。原因は管理基準を見誤った情報統制AIによるものデ、そのAIは三位総研ホールディングスの本社で処理されていル』

「君が提供した証拠も有効と認められて、裁判はスムーズに進んでいるよ。表に出るのはもう少し後になるけどね」

事件の原因は対処したが、問題はまだ残ったままだ。
マスメディアの報道によって市民感情が扇動されれば余計な横やりが入る可能性もあり、現時点では情報開示に規制がかけられている。

『この状況で環境課が取れる対抗作戦は3つあル』

仮想モニタにデフォルメされたローレルが指を立てている図が浮かぶ。

「一つ目は管理区内各医療施設に残っている"カーボンコピー"キャリアへのプログラムリムーバーの交付だね」

軋ヶ谷が言葉を繋いだ。
キャリア――AIのプログラム感染者のことだ。

「認可が下りたからもう交付は始まっているけどキャリアに該当する全員に対処が出来ている訳じゃない。むしろ状況は悪化しているよ」

病室でも口にしたフレーズは何度も聞きたいものではない。

「三位総研の捜索の12時間前に医療機関を脱走した"カーボンコピー"キャリアだけど、重力ダムの位置を感知していたみたいだ」

彼らはオープンなネット環境に自然な形で暗号化した情報共有のログを残していて、それは例えばレストラン評価サイトやSNSでの画像投稿などに上手く紛れ込んでいた。
誰か一人がダムを検知した途端、全てのキャリアが無意識下で同一の目的地へと動き出す様に設計されていたらしい。
横目に見えたネット上のニュースは医療機関での傷害事件発生を報せている。

『一般市民の中に"潜伏"していたキャリアも汚染区画へと向かい始めているヨ』

汚染区画への導線は吾妻ブロックから繋がっているルートだけではない。
そもそも"カーボンコピー"による傷害事件はブロック内外を問わず発生しており、封鎖作戦への不足は時間経過とともに増加していると言えるだろう。

「やれることをやるだけだよ」

不安が顔に出ていたのだろうか、風炉の顔を見ながら軋ヶ谷がそう言った。

「はい」

『対抗作戦の二つ目は重力ダムの検知と四物対処、三つ目は汚染区画へのキャリア侵入を防ぐ封鎖作戦ダ。この二つは汚染区画で同時進行することになるネ』

歩いてくる二人に気付いた瑠璃川が手を振って、風炉は小さく会釈した。

「全員揃いましたね」

狼森が軋ヶ谷と並び立つ。

「作戦概要を説明します」


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「うへ~、気持ち悪いですね~」

汚染区画内部に初めて足を踏み入れた瑠璃川の感想は素直なものだった。
舗装の崩れた道を恐る恐る歩く彼女は、時折見える真っ黒な液体――人間の脳だったもの――を特に嫌がっている。

『まだキャリアは到達していないようですけど、気を付けてね』

夜八の声が電脳へ通信される。
風炉はそれを受け取って、前を歩くフローロとネロニカ、後ろを歩く瑠璃川とラパウィラの様子を伺う。
ダム検知班に選出されたのは現場担当の五名とオペレーターの一名、計六名だ。
探索範囲に対して人数は少なく感じられるが、そもそも重覚の要件を満たす人員が限られている。
重力ダムへ"カーボンコピー"の保持者が接触すれば大規模な重力汚染事故が発生し、その被害は管轄区に留まらない可能性も高い。
検知班の課員も接触は厳に禁止されていて、不慮の事態を防ぐためにも少人数での行動方針が固められていた。
キャリアの侵入を防ぐ封鎖班の人員が多く割り振られるのは当然の判断だ。

「何か感じられますか?」

フローロが振り返って尋ねる。

「私は特には」

「ジブンもッスね」

ネロニカとラパウィラの言葉を聞きながら、風炉は両耳がざわつくのを感じていた。
ここから離れた、視認出来ない場所を引き当てるような異質な感覚。

『多分だけど、汚染区画の深部にあるね』

「ですね~」

夜八と瑠璃川も同様に、今しがた自分が感じたものが重力の勾配だったと認識できた。
このざわつきは、牽引感は、電脳化して初めて得た感覚ではない。
その事に、安堵したような、拍子抜けしたような。

「これがそうだったんですか……」

明確な位置は検知出来ていないものの、深部へ向かう事は確定した。

「風炉さん、先頭をお願いできますか?あまり突出しない程度でいいので」

「分かりました」

フローロと立ち位置を入れ替えて、ざわつきの方向へと足を進める。
舗装の崩れ具合が激しくなり、視界に映る建造物の様子が異常なものへと推移していく。

「そろそろ深部に差し掛かりますから全員防護服を着用しましょう。潜航調査で錨を打ち込んでありますが……単独行動は禁止ですからね」

緊張感と共に袖を通し、再び立ち位置を入れ替える。
光源のないはずの汚染区画深部は何故か微かに明るく、しかし視界の先を見通せない程度には不確かだ。
電脳に浮かぶ仮想の視界をオーバーレイしつつ、ハンドライトで先を照らしていく。

「私とネロニカちゃんが先に歩くので、同じルートを通るようにしてください」

上下が逆さまに崩れ落ちた高速道路に足をかける。
破砕されたコンクリートから見える補強用の金属棒は歪に曲がり、波の様な視覚情報がその上を通り過ぎていく。

「ここから右側です」

『迂回路をマップデータに送るね』

足場の悪い瓦礫の道は滑落するリスクが高く、本来であれば避けるべきだ。しかし今は時間が惜しい、わずかでも。
視界に薄く重なる地図情報を頼りに移動経路を修正して、その上で最短を進む。

「この先はショッピングモールですね」

ルートこそ別ではあるが、開闢調査の最中に目にした場所であることは間違いない。

「何ですかあれ~」

瑠璃川が指をさした先には、柱が立っている。
異常なのは外観で、液状にもゲル状にも見て取れるそれは自分たちの視点と同じかやや高い位置までしかない。
ショッピングモール外周に降りると、そうした柱はぽつぽつと見受けられた。
フローロとネロニカは時折見られる黒いタールの様な液体が融解した人間の脳であることを知っている。
であれば、目の前の柱が元は何であったかは察する事は可能だが、どうしてもそのように認識する事が出来ないでいた。

「……あまり時間はかけられません。急ぎましょう」

それを伝えても作戦に有益な情報とはならない。
フローロの言葉にネロニカも賛同して会話を引き継いだ。

「この先はどう進みますか?」

「そうですね……。まだ下の方でしょうか」

『ショッピングモールの中に入るルートを――アップ――……』

「夜八さん?」

『通信……安定しな――……し待っ――』

庁舎との通信状態が悪化しているらしい。
瑠璃川は僅かに顔を顰めたが、ネロニカが大丈夫ですよ、と言った。

「グレンさんに連絡します。少し待機を」

「どうするんですか~?」

「アートマさんに中継をしてもらって庁舎との通信を安定化させます」

「そういうことが出来るんスね」

「以前同じトラブルがあったので、そこからマニュアル化されましたね」

「――はい、お願いします。すぐに繋がる様になるはずです」

連絡を取っていたフローロの言葉通り、庁舎との通信は直ぐに復旧した。

『あ、あー。大丈夫かな?西館と東館それぞれの入り口をマップにピックアップしたからそこまで進んでくれる?』

ショッピングモールの外周に降り立ち、瓦礫と崩落によって進めそうな道は多くなさそうだ。
それらを片付けながら真っすぐ進むか、大きく回り道をして進むか短く相談しようとして――
『フォスちゃん?』
夜八の電脳通信がわずかに混線した。


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「脱走?」

汚染区画での作戦行動中の課員と連絡を取っている管制室に、先程までとは異なる緊張が走った。

「こちらの管理を外れた途端でした。身柄を移す際、スタッフに暴行を加えて走って逃げたみたいです!」

フォスフォロスの焦った声色を受けて隠岐は眉間に皴を寄せた。

「居場所は?」

「庁舎内に潜伏していると思います。監視カメラの映像情報には捉えられていませんけど……」

隠岐がすぐさま電磁の枝葉を伸ばす。
時間はさほどかからずにエントランス―—岩世の電脳へと到達し、アクセスを、走査を、行う。

【<トリプルアイ本体との情報交換が一定期間以上確認されませんでした>】

端的な状況ログだけがサルベージされる。
途端に――岩世からの情報侵襲が庁舎のシステムへと伸ばされる。
隠岐はAI複製体が単独行動を開始したと仮定した。
恐らく岩世の電脳は、庁舎ネットワークへのハッキングを試みる為、今まさに全記録を廃絶してAIへと置き換わっていく途中なのだろう。

「対応を切り替えるわ」

リムーバー交付に割いている処理をシステム防壁にスイッチするのは難しい。
九鬼胡桃の顔がこわばる――


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「おヤ、書類仕事は済んだのかイ?」

「ああ」

階下へ降りる通路の途中、皇は手にしていた封筒を二つ、祇園寺へと差し出した。

「軍警への捜査協力、軍部への協力要請に関する書面だ」

「ありがとウ。……毎度の事だけド、この時代に物理媒体に拘るというのもナンセンスだと思わないかイ?」

「データの改竄が手段として成立するからこその対処法だろう。私は嫌いではない」

並んで歩く二人が向かう先はエントランスだ。

「管制室に?」

「そのつもりだが……」

階下がにわかに慌ただしく、足早に階段を降りると見た事のある見慣れない顔が立っていた。
営業スマイルが抜け落ちた無機質な表情の岩世チトセを囲むように内勤の課員が様子を伺っている。

「移送中ではなかったのか?」

「んン?……いヤ、その最中スタッフに暴行を加えて逃走中の様ダ。今は隠岐ちゃんと九鬼ちゃんが庁舎ネットワークへのハッキングを抑え込んでいるヨ」

小声で話す二人に岩世の視線が向けられたかと思えば、真っすぐにこちらに歩いてくる。

「止まれ」

静止の声は聞こえていないのか、それとも無視しているのか。

「六枷、冱月。至急合流しろ」

インカムで二人を呼び出しながらスタンロッドを抜く。

「皇チャンだけで大丈夫かナ?」

そう言いつつさりげなく距離を取っていく祇園寺には視線を向けず。

「高みの見物を決め込まず、手伝って欲しいものだな」


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「これやばいんじゃないッスか?」

庁舎側で発生したトラブルを映像情報で確認していたラパウィラは思わずそんなことを言った。
組織のトップが暴漢に襲われているなど非常事態でしかない。

「……課長全部避けてますね~」

「マジ?」

移送中の民間護衛スタッフを意に介さない岩世の身体スペックを皇は歯牙にもかけず、飄々と攻撃を躱していた。
スタンロッドを構えるとその射線を切る様に岩世は動く――避難しきれていない内勤課員が重なる瞬間に僅かな躊躇いが生まれる事を見抜かれている。
しかし……岩世が皇を狙わずに突き進むか、内勤の課員に意識を向けるか、いずれかに舵を切れば形勢は変わるはずだ。
そのどちらでもない付かず離れずの立ち回りの意図が不明な為、アクションを取る切っ掛けが掴めないでいる。

「課長サンって結構動けるんスか?」

映像で見ているだけでは猶更で、ラパウィラの感想はどこかふわふわとしている。
皇純香が前線で戦う事は組織としてあってはならない事だ。
人員が補強され狼森が現場指揮を任されてからは特にその傾向が強い。
しかしD案件で勤務職員が大きく減った今、咄嗟に対応できる人員が庁舎には足りない。
皇のこうした大立ち回りはあまり見る機会のない出来事で、初めて見る課員からすれば刺激的な一幕だ。

「やっちゃえ課長~!」

こうした反応も分からなくもないが――

「ダム検知作戦に集中されなくていいのですか?」

ネロニカの一言は彼女たちの熱を奪うには十分だ。
二人と同じく映像情報に若干気を取られていた風炉も、仮想モニタを意識の外へとスワイプする。

「……重力ダムの位置は掴めましたか?」

フローロの問いかけに風炉は首を一度だけ縦に振った。
近付いている感覚はあるが、距離や位置は未だ曖昧で具体的には絞り切れていない。
西館の入り口手前――バス停留所の名残が僅かに残るエリアに到着して一息つく、その直前。
足元が揺れるような大きな振動を感じて姿勢を低くする。
重力汚染区画の影響だろうかと電脳の状態をセルフスキャンするが結果は正常。
先程の揺れは実際の感覚で、他の四人も同様に身構えていた。
直後。
大きな破砕音と共に、上部に風穴が発生した。
落下してくる瓦礫と、それに混ざって課員の姿、そして脱走したキャリアたち。
五人のいる位置からは少し離れているが、それが誰であるか確認出来た。

「宗真さん!何やってるんですか!」

狼森が上方へと大きな声で呼びかける。

「すみませーん、お願いしまーす」

顔をのぞかせた宗真童子が左手を軽く振って、もう片方の腕で何かを振り回している。
形容しがたい音が聞こえて、恐らく何人かのキャリアがまとめて吹き飛ばされたのだろう

「キリがないな……!」

ドーベルマンは悪態をつきながらスタンロッドと非殺傷のゴム弾を装填したハンドガンを多数使い分けて一対多を対処している。

「……私がいなくてもダム検知出来そうだし、あっちに混ざってきますね~」

手が足りていない事は明白だ。瑠璃川の提案に了解を返し、甲高い金属音を背にして風炉たちは先へ進む。
それでもすぐに、この階層までキャリアは到達するだろう。

「急ぎましょう」


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先んじてショッピングモール内に踏み込んだ五人は、自分たち以外の誰かが建物の内部にいる事に気が付いた。
封鎖作戦で対応しきれなかったキャリアがいる――彼らの侵入経路は作戦に参加した人員で抑えきるのは到底不可能な数だ。
彼らの目的は重力ダムへの到達だが、キャリア以外の存在を認めた場合にどう行動するかは課員との交戦を見るに、同様の状況になることは容易く予想できる。

「出来るだけ見つからない様に、慎重に行きましょう」

足場の不安定なショッピングモールをゆっくりと進むことは、置かれている状況と相反して過剰な緊張を抱かせた。
小石が転がる音、遠くから聞こえるキャリアの足音、物理衝突による破砕音。
重力ダムの検知の為に感覚を研ぎ澄ませる事で、同時に多数のノイズを拾い集めてしまっていた。
過度な情報の奔流に、思わずしゃがみこむ。

「風炉サンどうしたッスか!?」

ラパウィラの声が聞こえる、ネロニカの視線を感じる、遠巻きから近づいてくるいくつもの足音が、金属のぶつかる雑音。
それらが徐々に小さく、遠くなっていく。
軋ヶ谷と蘇芳に受けた電脳の操作方法を思い出し、視覚、聴覚などの物理感覚を一時的にカットする。
静寂の中、脳の神経をずるりと外部に広げるような感覚が、他のいくつかの電脳の存在とその先にある異質な牽引感を知覚した。
前者はキャリアだろう、そして後者は――。

「こっちです」

遮断していた感覚を復帰させて、正面から近づいてくる大柄なキャリアに向かって駆けだした。
茫洋な顔つきの大男は足と足の間を滑り込むように通り抜ける風炉に対応出来ず、三人もそれに続く。
通路を真っすぐに進みいくつかのキャリアを置き去りにして、重力ダムの検知班は東館とを繋ぐ渡り廊下を駆けていく。
ショッピングモールの外が視界に入り、その先。

「あれは……」

風炉が見たのは数人のサイボーグキャリアと共にいる鉄床の軍警の姿だった。
医療機関から脱走した事は明らかだが、何故気付かれなかったのか。

「――岩世チトセの暴走はこれを隠す為の陽動だったかもしれないですね」

環境課という組織の長が直接狙われるという事態と比較すれば、おおよその出来事は些事に該当する。
岩世の意図のつかめない動きもこの推測であれば説明がつく。
駐車場の脇には大破し乗り捨てられた医療機関のワゴンがあり、どさくさに紛れて軍警の同僚を数名巻き込みながら医療機関から脱走したのだろう。
目的地に向かう複製体の数は多い方が望ましく、義体化率が高く肉体の頑強な軍警を汚染区画に進ませるという目論見もあったかもしれない。
東館内部へと走り去る彼らを確認し、

『その方向が重力ダムだよ!東館の、一階のどこか!』

通路を渡り切り、崩れかけの非常階段を駆け下りて今しがた駆け込んだ彼らの姿はそこにはなかった。
追いかけなければという考えが浮かび、しかし足音が分散している事に気付く。

『多分、彼らダムの位置が分かってないんだ。総当たりしてるのかも』

足音が近づき、遠ざかって、また近付く。
ショッピングモールは狭くはないがサイボーグが走り回るには広いとも言えない。
足を止めている余裕はない――風炉と夜八の検知を頼りに通路を進む。
そして当然、鉢合わせる。

「おわぁ!」

通路の脇から顔を見せたキャリアと接敵したラパウィラはスタンロッドを向けてトリガーを引いた。
しかし焦りながら動きながらでは当てる事が出来ず、首を傾げている間にキャリアが投擲した瓦礫が胴体に勢いよくぶつかり――軽くのけぞる、その程度。

「ホイッと」

改めてトリガーを引き、一人のキャリアを無力化することに成功した。

「大丈夫ですか?」

ネロニカの問いかけにラパウィラは頷いて、

「なんかもう一人来てるんで先に行ってくれていいッスよ」

一瞬だけ逡巡し、三人は先を目指す。
彼女の事は心配だが、ここで足を止めて重力災害が引き起こされればより多くの――もちろん自分たちも含めて、犠牲者が増えるだけだ。


********************


しばらく進み、今度はネロニカが立ち止まった。

「まだ先ですよね?」

「はい」

「分かりました」

そう言って動こうとはしない。
バックパックからハンマーを引き抜いて、暗がりの向こうから姿を見せたサイボーグと対峙する。
それは軍警と共にいた一人だ。

「二人は進んでください」

「……気を付けて!」


********************


ざわつきを元に重力ダムの位置を測り進むうちに、風炉とフローロはショッピングモールの東端に到着した。
円形の土台といくつかのベンチに囲まれる様に、中央には大きな造木が半壊状態で残っている。

「これは――」

その造木の前に、錯覚の様に現実感を欠いた何かが浮かんでいる。
ここに来るまでに何度も見かけたタール状の柱よりも一層濃密な漆黒に彩られたビー玉程度の大きさの、何か。
手を伸ばしかけたフローロのスーツ端を慌てて風炉が掴み、

「これが重力ダムです」

確信を持って口にした。
遠くからは衝突と破砕音が聞こえている……急がなければならない。
マルクトエディスの先端に錨を装着し、数メートル離れて打ち込みを開始する。
一本目を打ち込んで、二本目を装着する。
合計で5本の錨を打ち込むことで、ダムの重力崩壊を低減できる。
しかしそれが終わるまで、キャリアの接近を防がなければならない。
急ぐ必要はあるが、この作業は思いの外繊細だ。

『二人とも、前!』

まず見えたのはサイボーグのキャリアの一人。
風炉は油断なくスタンロッドを構え、フローロも警戒しながら錨の打ち込みを続行する。
頑強な構造のサイボーグには物理的な攻撃は通りづらく、スタンロッドやスタンブレードなどによって行動不能に追い込むことが最善手だ。
接近に合わせてトリガーを引き重熱が放たれる――サイボーグは咄嗟に身を翻すが、続く二発目が四肢の動作不良を引き起こした。
キャリアが地面に崩れ落ちるのを見届けず振り返ると、フローロが二体のサイボーグに挟撃されているのが目に入った。

「フローロさん!」

呼びかけに答えるだけの余裕はなく、マルクトエディスを手放してスタンロッドを構える隙を探っている。
風炉も同じく構えるが立ち位置が目まぐるしく入れ替わりタイミングが絞れない。
最悪の想定、フローロを行動不能に追い込む可能性がトリガーを引く指を躊躇わせた。
一瞬だけフローロと目が合って、電脳に視覚情報の共有が申請された――直ぐに受け入れる。
複数の視野から得られる情報を元に一対二の状態を捌く、捌く、捌く、しかし意味は無い。
時間稼ぎをしてもこちら側にメリットは無く、状況の打開が必要だ。
だから、フローロは左右から迫る鉄腕を片方だけ受け止めた。
僅かに停止した隙間を狙ってスタンロッドを至近距離で放ち、相手の片割れを行動不能へと追い込んだ。
すぐさま振り戻された鉄の指の先端がフローロの防護服に引っかかり、生地が限界を超えて引き裂かれる。
ほぼ同時に青い瞳が捉えるのは蜃気楼の様な格子、物質の切り取り線――なぞる様に高く澄んだ切断音。
重熱をまとったペン先がサイボーグの関節部を切断し、叩きつけるように振るった衝撃で中ほどからへし折れた。
もつれあう様に倒れ込み、フローロは立ち上がるより先に両手で頭を抱え込んだ。

「ぎぃ―――」

噛み締めた口の隙間から漏れるのは苦悶の声。
重力汚染区画の深部、重力ダムの傍ら、防護スーツ無しで晒された重覚が拾い上げたのは過剰なまでの重力の揺らぎだ。
脳を揺らす不協和音が痛みとなって全身に伝播する。
揺らぐ視界にもがきながら電脳通信の全てを遮断して、痛覚神経を全カット、それでも全身の感覚は不確かなままだ。
視覚情報をカット、聴覚情報をカット――三つ目の物理感覚を遮断したところで強制的にスリープモードへと移行した。
俯せになって動きを止めたフローロの真横でうごめくサイボーグにスタンロッドを放ち、風炉は傍らに落ちていたマルクトエディスを拾い上げる。
錨を取り出して見様見真似で打ち込む……成功の様だ。

「あと二つ……」

自らに言い聞かせる様にして四つ目を打ち込む……装着に手間取ったものの問題なく打ち込みが終わる。
五つ目の錨を取り付けて、重力ダムへと意識を向けた――

『風炉ちゃ――上!』

夜八の叫びを受けて反射的に頭上を見上げた風炉が目にしたのは、重機のような外見の全身義体キャリアが上階から飛び降りてくる姿だった。
落下軌道は言うまでもなく直上、前傾姿勢で襲撃してくる。
マルクトエディスを抱えて横に飛びこんで、強烈な振動と衝撃が全身を叩きつけた。
一転、二転、地面を跳ねる体はやけにゆっくりと感じられた。
進行方向には漆黒の球体、重力ダムが佇んでいる。
三転、四転、勢いは弱まる事なく瓦礫の上を進んでいく。
黒点が迫る、迫る、迫る――触れる、その直前。
何かが、誰かが割り込んで風炉の体を突き飛ばした。
そして直後、ガラスが割れる様な耳障りな高音が響き渡る。
ぼろぼろに破れた防護スーツ払い除けて見上げると、数名のキャリアが全身を破壊されながらダムへと"落下"していく最中だった。
――金属の顎部のパーツが地面に突き刺さっているものを除いて。
風炉はよろよろと立ち上がり、強烈な頭痛と強く打った背中の痛みの中でマルクトエディスを構える。
少し服の擦れたネロニカが駆けつけてその体を支えた。
手を添えて打ち込みを補助し、五本目の錨が振り下ろされる――。

『直ぐにそこから脱出して!アートマ君が向かってるからフーケロちゃんは彼に任せて!』

夜八の通信から一分も経たないうちにアートマが到着し、倒れ込んだフローロを担ぎ上げた。
足元の覚束ない風炉はネロニカに背負われ、崩れていく二階の床を見届けた後、汚染区域から脱出するルートをひた進む。
轟音が響いている、そして視界は霞んでいく、頭痛は治まらない、全てが黒く沈んでいく――
――――……
――……
……


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仮想モニター越しに表示される重力ダムと降着円盤を確認し、フェリックスはうーん、と唸る。

「詳細なデータがもう少し欲しいところですが、非常に面白い結果です」

課長室、作戦に協力してくれた関係各位へ送る謝辞をしたためた書類から顔を上げて皇は問いかけた。

「安全なのか?」

「凄まじく危険ですね。現状安定はしていますが」

にこやかに言う。
つい先ほどまで彼が見ていたものと同じ汚染区画深部の映像をサブモニターに表示しながら、封鎖作戦に関わる報告書を多数立ち上げた。
汚染区画の入り口からショッピングモールまでの広範囲に渡る派手な立ち回りのわりに、怪我を負った課員はそれほど多くは無かった。
通信の中継機を運んでいた情報係の一人がカーボンコピーキャリアの破壊活動に抵抗し相当な重傷を負ったと報告を受けたが、最大の負傷者はその一人だけだ。
衝突したキャリアの数自体はそれなりに多かったものの、それほど武装した相手でもなく、また彼らの目的が破壊や暴力の類で無かったことも理由に含まれるだろう。
重力ダムに落下していった数名を除き、キャリアの負傷者も多くはない。
ほとんどがスタンロッドなどによって意識を失う形で拘束されており、概ね穏当に終息したと言えるだろう。
残存キャリアはリムーバーによって"カーボンコピー"を取り除かれ、機械的な医療措置によってサヴァン障害も除去される手筈になっている。
医療機関への護送手続きは速やかに行われ、ある程度のリハビリは必要となるが、将来的には社会復帰出来る見込みである、と報告が届いていた。
封鎖作戦の結果だけを見れば、満足のいく内容と言える。

そして問題の中心にある重力ダムの状態は、フェリックスの言葉通りであるなら安定はしているらしい。
映像で確認出来るのは、ビー玉の様な漆黒の球体を中心に、赤と灰白が入り混じった肉の降着円盤――ブラックホールの小さな模式図――を形成した姿だ。
ダムへと落下していったキャリアの皮膚・筋繊維・内臓器官・骨格・脳神経をかき混ぜる様にして帯状に内部へと吸い込み、部分的に吐き出されたコンクリート建材と混ざり合った結果、この状態へと至っている。
囲むようにして打ち込まれた錨が僅かに遅れていたら大惨事の可能性もあったことを知らされ、皇のこめかみがほんの少し引きつる。


********************


翌日、汚染区域から帰還した検知班の面々は課長室に呼び出されていた。

「重力ダム検知に赴き、汚染区画深部にてその危険を防いだことは素晴らしい成果だ」

穏やかで、平坦な、賞賛の言葉。

「重力災害は起こらず、被害も最小限で留められたとフェリックス博士も高く評価している」

淡々と、冷静で、どこまでも真顔のまま。

「サイボーグキャリアへの対応も確認したが、随時適切な処理だったと言える。それと――」

何故か全員の背中に冷たいものが伝っていく。

「ダムへの接近、交戦、窮地へ追い込まれながらも見事に状況を解決した映像も確認した」

灰色の猫の声色に称賛だけではない圧力が混じる。
おかしい。
検知班は今、労をねぎらわれている真っ最中のはずだ。
事実、皇の喋っている内容は責めるところなどひとつもない。
しかし……彼女の無表情には、何か大きな感情が残されていて、風炉はその正体がわからず、わずかに息を呑んだ。

「私がどれだけ心配したと思っている。……以上だ」


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やや曇り空。
空調の音、わずかな陽気、コーヒーを一口。

鑑識室で自分のデスクに座った風炉は、いつも通りにキーボードに手をかけて、指を何度か右往左往させた。
電脳越しに浮かぶ資料を眺めながら、報告書の文章を書いては消して、書いては消して、文字入力の操作は慣れていないと電脳のみで完了させることが難しい。
今の所、この作業は手を動かすほうが早そうだ。

この一連の事件で、風炉に起こったことはなんだろうか。
慣れない電脳、前線での立ち回り、大きな案件だった。
変化した物事もあり、知らないことをいくつか知った。
けれど、胸に残るのはそれら周辺情報のかけらではない。
風炉はすっきりとした心地で居た。
真実を解き明かし、この事件について分かっていない機序はなくなった――それが重要だった。
これでようやく、心地よい静寂に身を浸し、次なる未知の解体に取り掛かることができるだろう。

仮想モニターに意識を向ける。
羅列されている鑑識結果の整理と照合は終わる気配がない。
いくつかの現場証拠、写真、映像、瓦礫のサンプル。
平穏無事とは言い難いそれらを眺め、改めてテキストソフトを起動した。
両耳はざわつかない。



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…………。
"カーボンコピー"と呼称される一連の事件は重力ダムの安定を持って完了とする。
ただし、ダムは依然として重力災害のファクターとなり得る為、該当区域に定点カメラを複数台設置し、観測を続行の事。
…………。
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【"カーボンコピー"】

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