【錨を振り下ろした日】 Cp.2

ネロニカとアートマ、そしてフローロの三人は旧庁舎付近の汚染区域立ち入りゲート前にいた。
アートマは用意した備品が入った小型のコンテナを背負っており、対するネロニカとフローロは手ぶらである。

「アートマさん、ありがとうございます」

「このくらいなら任せてください」

アートマは運搬と内蔵センサーを使用した振動フェルミオンの観測、そして管制室との中継役だ。
ネロニカとフローロは観測装置の組み立て・設置と錨による減退作業が割り振られている。
立ち入り禁止のホログラムが並ぶラインを越えて、もとなりが配備された受付を通り、その先には堅牢なゲートが聳え立っているのが見えた。

「IDカードを用意してください」

すぐ傍にある読み取り機にかざすとゲートがゆっくりと開いていく。
もとなりから視線だけの見送りを受けて内部へと一歩を踏み入れた。
――空気が変わった様な感覚。

「これが汚染区域ですか……」

何かが違う、何もかもが違う、それを明言するのが非常に困難で、分かり切ったことを呟く事しか出来ない。

「絶対に離れないでください」

流石に手を繋ぐ事はなかったが、寄り添う様な距離を保って歩く二人の後ろをアートマが追従する。
しばらく歩くうちに、フローロは自らが感じ取った違和感を重覚によるものだろうと仮定した。
地表階やそれより上の階層の汚染は人間の活動に影響を与えるレベルではないと言っていたが、正直なところ信じがたいとも思う。
多く見られる訳ではないものの、瓦礫の礫が浮き沈みをしている様子は重力の制御下にある地表ではあまりも非常識な光景だ。
人によっては幻覚を見ていると感じるかもしれない。

「足元に気を付けてください」

ネロニカの先導に沿ってコンクリートが組成を保っている道なりを歩く。
ところどころにある段差の度にアートマが遅れるので、ネロニカに少しゆっくり歩きましょうと提案すればすんなりと受け入れられた。

「あれは何ですか?」

旧庁舎に続く道の両脇に立てられた街灯――というには随分と背の低い物体が不等間隔に並んでいる。

「あれはですね」


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画像1

「振動フェルミオンの観測装置だ。この前のチェックの時にあっただろ?」

小玲の質問にチェックリストを開き、クラウドチャンバーの項目をペンで叩く。

「でも形違うよ?」

「デザインが違うだけで中身は一緒だ。もちろんメインはサーベイメータでの観測だが、こいつにはこいつの役目がある」

「どうやって観測してるの?」

「霧箱って知ってるか?……知らなさそうだな」

首をかしげる様子に、さてどうしたものかと考える。


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「振動フェルミオンが通過した軌跡を画像処理して規定時間内の運動量を測定しています。ですがサーベイメータの観測範囲や精度と比較すると開闢調査で使用するには心許ない性能です」

地表層に置かれたクラウドチャンバーの数は多いがその距離や位置は一定ではなく、単に置いてあるだけの様にも見えた。

「本来の使い方ではありませんから」

本来は手持ちで使用するものらしく、定点観測するならばグレンの言う通りサーベイメータを使用するのが望ましい。
しかし、そうしないのには明確な理由がある。

「表向きのアピールが重要らしいです」

わざわざアナログな方法で測定を行っているように見せるのは何故か。


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「結局、市民からの反発がでかいって話だよ」

霧箱の説明を聞いた小玲は再び首を傾げた。

「何で?」

「何でって……。そりゃ得体のしれないものなんてまずは不安に思う。そんで否定される。安定と安寧を求めるなら猶更な。例えばあのタールみたいなもんを使ってインフラを整えます、なんて言われてもピンとこないだろう?」

それが事実であっても成果が出るまでは誰もすんなりと受け入れてはくれないだろう。

「そこで事故なんか起こしてみろ。計画自体が無かったことにされるのは目に見えてる」

「何で霧箱を使う事になったの?」

質問攻めにちょっとだけうんざりしつつもグレンは丁寧に答えてくれた。

「つまり、私たちはまだこの程度しか出来ませんよっていうアピールだ」

自分たちが理解する事と、それを周囲に伝える事の難易度は全く異なっている。

「ゆっくりゆっくり慣らして地盤を整えていく。そういう回りくどさが説得力になることだってある」

環境課がそのエネルギーを独占することは不可能だが、それに至るアプローチが早すぎると何かしらを疑われる可能性がある。

「作業手間や無駄になる金を考えればやらない方がいいんだが、そういう風に割り切れないのが組織ってもんだからな」

エネルギー開発は環境課ブロックのインフラ整備だけではなく、もっと別の、あるいは。
予防線はいくらあっても不足するものではないし、余計な面倒事を回避したいのであれば回り道も計画の内だ。

「大人ってのは面倒なんだよ」

曖昧な答えで会話が終わり、小鈴は欠伸を噛み殺した。


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「この地点で観測装置の設置を行います」

アートマが運んできたコンテナから装置の部品を取り出して組み立てが開始された。
サーベイメータを中心に適当な距離感でクラウドチャンバーの配置を終えると全ての電源が投入され、観測結果がちゃんと送信されている事を確認出来るまで一時待機となった。

「連絡が来るまで休憩しましょう」

レジャーで使用されるようなシートが広がり、ここだけを切り取ればピクニックか何かだろうか。

「周りの景色が独特過ぎて穏やかじゃないですけどね」

「気を緩めるのは危険です」

「それはそうですね」

流石に飲食物の持ち込みはしておらず、特にこれといった会話もないまま三分が経過した。

『待たせたな。観測装置からのデータ送信を確認。内容にも問題が無いと判断出来たので設置作業は終了とする』

唐突にグレンの声がアートマから発せられた。

『次にどうするか分かってるよな?』

「旧庁舎跡地から下層への潜航――高濃度汚染区域への進路開拓です」

緊張感を帯びた声。

『そうだ。でもって中和した範囲内で簡単な調査を行う。あくまで簡単に、だ。景色を見てくる程度でいい』

この場にいる三人の体構造は生身ではなく、その分だけ通常の人間と比べて影響は受けにくい。
しかし楽観視出来る要因とはならず、出発前のブリーフィングでは潜航時間に関して徹底的に注意が行われていた。

『錨の打ち込みは焦らず確実に行え。今回持ち込んだ錨の数は四つだが使用していいのは二本。ネロニカとフローロでそれぞれ一本ずつってのは覚えてるな?』

「はい」

『アートマはセンサーで常に振動フェルミオンの状態を観測してくれ。高濃度汚染区域に気付かず入ったなんて洒落になら「わかりました!」』

やや被せ気味の返答の向こう側で溜息を吐いた気配がした。

「行きましょう」

ネロニカの言葉を合図に三人は立ち上がる。
背負っていたコンテナをこの場に残し、マルクトエディスに錨を装着して一本ずつを手に持った。


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「面影もありませんね」

旧庁舎だったものの手前で立ち止まり、それを見上げる。
記憶の中にあった光景――ロナルド・ハンティントンによって大規模な物理崩壊が起こる前――を記憶していたフローロは、目の前に広がる異常な空間に思わず息を呑んだ。

「どうしましたか?」

「昔のことを少し思い出しただけですよ」

疑問符を浮かべたネロニカだったがそれ以上は何も言わず、アートマからの観測結果報告を待っている。

「分かりました。境界線まで進みます」

端から見れば完全に独り言だが管制室とのやり取りを終えたアートマが二人へと振り返った。

「ついてきてください」

先導に従って進むと下層へと続く階段の成れの果てが姿を見せた。

「止まります」

視覚的には何の違いも無いがセンサーが捉える振動フェルミオンの運動量は雲泥の差だ。

『ネロニカ、一本目を打ち込め。ただし今のアートマの立ち位置から前には出るなよ』

「分かりました」

マルクトエディスを足元に向けて構えると数舜の停止を挟んで打ち込んだ
僅かに溶解させられた部分に沈み込み、錨を中心に重熱式が起動する。
アートマのセンサーは振動フェルミオンの運動量が徐々に減退していく様子を捉えていた。

「成功です」

『やれたじゃねえか。俺のアドバイスのおかげだろう?』

「それを言わなければ感謝を述べてもよかったんですが」

『思ってもねえだろそれは』

小さくしかめられたグレンの顔をアートマのカメラ越しに幻視して、ネロニカはフローロの横に戻ってきた。

『下層に向かえ。慎重にな』

高濃度汚染区域とされる範囲に足を踏み入れて、モニタリングしていた三人の位置情報にノイズが混ざる。

『待て!』

聞いたことのないグレンの鋭い声に身をすくませる事なくその場に留まった三人は管制室からの指示を待った。
通常であれば考えられない現象は数秒で元に戻ったが、そのまま一分ほどの待機時間を経て潜航の継続が決定した。
ほんの少し下層に降りてきただけだが現場の緊張感は段違いに高まっており、慎重に進む足取りは遅い。
錨の有効範囲ギリギリに到着したのは通常の移動速度から考えると倍近い時間を要している。

『それでいい。二本目の錨を打ち込め』

「私ですね」

『ケロちゃん頑張れー!『耳元で叫ぶなコラ!!』あ、ごめんなさい!』

画像2


その騒がしさで僅かに緊張感がほぐれ、マルクトエディスから打ち出された錨は問題なく効果を発揮した。

「観測しますのでお二人はその場で待機してください」

今日の調査タスクが完了した事で一息ついたフローロはようやく周囲を見渡した。
地表より下に降りてきたことから地下である事は間違いないが、視界の先には赤く揺らぐ空の様なものが見えている。
ライトを持ち込んでいないのにも関わらず足元が見える程度には明るく、時折明滅する光点は不規則に揺蕩っている。

「何か来ますね」

身構えたネロニカたちの前方から波の様な揺らぎが迫る。
通路の全幅を撫でながら三人を通り過ぎて、第二第三の波が連続してまた通り過ぎた。
物理的な干渉力さえなかったものの、視覚的に圧迫されて一歩足を引く。
十秒ほどそのまま波を受け続けていたが特に意識や体調に変化は見られなかったので映像記録を残す事にした。

「不思議な空間ですね」

見える範囲は全体的に霞んでいるはずなのに、目についたものが何であるかを判断出来る程度に視界は良好という有様だ。
時折ちらつく記憶の残滓との照会を終えて、どうやらここは旧庁舎の地下部分だった場所かもしれない。


画像3



「フローロさん、あっちを見てください」

「どうしました?」

ネロニカが言う方向は通路の両脇に走る溝――のすぐ傍にあるタールの様な水溜まりだった。

「回収してもいいと思いますか?」

バックパックから取り出されたのは金属の円筒である。
調査概要書には重熱資源の回収も織り込まれていたが、あくまで可能であればというものだった。
潜航開始してから経過した時間は二十分程度であり、想定されている三十五分にはまだ幾分余裕がある。

「確認を取りましょう」

電脳経由での直接連絡を実行し、3コール目で通信が成立した。

『どうした?』

《錨の効果範囲内に重熱資源を見つけました。少量の回収を申請します》

『……時間的に余裕はあるか。ただ回収時に接触しない様に気をつけろ。いいな?』

《ありがとうございます》

通話を終了し、円筒を持ったままのネロニカへと向き直る。

「許可をもらいましたよ」

「分かりました。では」

粘度のある様な無い様な、ゆっくりと溜まっていく液体を無表情で眺めながら、触れない様に注意しながら半分だけ沈めて液体を回収していく。
触ったところで害はない、らしい。
しかし人間の脳だと明らかになっているものに望んで触れるようなことは無く、もし、万が一、という考慮からも接触は極力避けるのが正解だ。
テオ細胞と同じく振動フェルミオンを含んだそれが外部からの刺激によって予想外の反応を示す可能性もある。
逆流しない様に少しだけ傾けながら蓋を閉めて、側面に残留した分はどうしようもないので厚手のハンドタオルで拭き取った。

「終わりました?」

「はい」

「それにしても広いですね。地下だとは思えないくらいです」

言葉の通り通路の端は見えるものの、ある部分からすっぱりと切り取られたようになっていた。
ガラスを隔てた向こう側では椅子がボーリングのピンを真似るように中空に整列されていて、時折その傍を机が回転しながら通り過ぎていく。
静寂の中で時折聞こえる甲高い音は左右どちらが発生源なのか不確かであり、まるで鳴き声の様にも思える。
足元のコンクリートに踵を打ち付けてみれば硬い感触が伝わってくるが、それをそのまま信じられるかどうかは少し不安だ。
自分自身は重力の影響化にありながら視界に映る景色はその真逆で、直感的な部分がそうした非現実に惑わされているのかもしれない。

観測が終わったアートマと合流し、二つ目の錨の有効範囲を散策する。
その範囲の少し外に横穴の様な入口を見つけたフローロは、離れた位置にいたアートマを呼び寄せてグレンに連絡を繋ぐ。

「通路から別ルートに繋がる横穴の様なものを見つけました。そちらでも確認出来ますか?」

『見えてるよ。蜃気楼や幻覚じゃなさそうだな』

「錨をもう一本使用すれば調査可能範囲に入ると思います」

『フェリックスに確認する』

ここから地表に戻るまでの時間をかなえるとあまり余裕がないのも事実だが、果たして現場からの申請は、

『錨の使用を許可する。ただ横穴には入らず、その手前から見える範囲を映像記録として残すまでだ。時間的な余裕もない、急げよ』

承諾された。

「分かりました。フローロさん」

「はい」

マルクトエディスを既に構えていたフローロは即座に足元に錨を打ち込んだ。

『ある程度撮れたら帰還しろよ?今日はまだ初日なんだ、気張るのはまだ先でいい』

横穴から見える範囲を一通り撮影した三人はグレンの指示通りに地表層へと向かった。

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高濃度汚染区域から地上へと向かう最中、一本目の錨を打ち込んだ境界線の手前でそれは起こった。

「えっ」

何という事のない段差に下ろそうとした左足の感覚が不意に消失する。
後方へと倒れていく体を自覚しつつ、残されたもう片方にも違和感が走った。

「フローロさん!」

叫ぶ声がどこか遠くで反響して、鮮明な視界は倒れ込む体に向けて手を伸ばしたネロニカとその表情を捉えた。
間に合わないと判断して、ネロニカのいる場所とは逆方向に体を跳ねさせる。
壁面に勢いよくぶつかった背中が訴える痛みを無視して左手を壁面に突き立てた。
小さな破砕音と共に手の甲中ほどまで突き立った部分を支えにして何とかその場に留まることに成功し、ふらつきながらも姿勢を立て直す。

「大丈夫ですか?」

口調から滲み出るような焦りが伝わるが、フローロは努めて落ち着いて答えた。

「膝から下の感覚が急になくなってしまったみたいな感じです。神経系に異常はないみたいですしエラーログも特に出ていないと思うんですけど」

全身を巡る電気信号は滞りなく、今は両足を思う様に動かすことが出来ている。

「重力汚染の影響が出たんでしょうか?」

高濃度汚染区域の調査活動は既定の35分まで経っていないにも関わらず。
錨によって振動フェルミオンの運動量は減退しているにも関わらず。
あるいは、鋭敏な重覚が過負荷となっていたのかもしれない。
いずれを肯定にも否定するにも、判断材料が乏しい段階では原因の追究も益体のない事と言えた。

「ごめんなさい。もう大丈夫です」

しっかりと立っている事をアピールしてみるが、二人の視線は中々外れてくれなかった。

「急いで戻りましょう」

階段を登る足は明らかに早く。


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