【錨を振り下ろした日】 Cp.3
環境課新庁舎、第三会議室。
「悪い、遅くなった」
最後の到着したグレンにちらりと目線を向けて、フェリックスのサングラスが虹色に明滅――しない。
「お疲れ様です。早速ですが調査結果の報告と共有を行いたいと思います」
挨拶もそこそこにして手元のタブレットを操作する。
「まずは汚染区画でアートマさんが行っていた振動フェルミオンの運動量観測結果についてです」
大きなディスプレイに表示されたのは観測地点とその結果を羅列した表とグラフだった。
汚染区画外と比較すると、地表から上層階にかけての数値でさえもかなり大きいが通常の人間に影響が出るようなものではないとフェリックスが補足する。
「高濃度汚染区域には範囲拡大の傾向が見られませんでした。これは良い結果と言えるでしょう」
スライドが一枚進み、
「おい。高濃度汚染区域にはなかったって言ったが、地表部はそうじゃなかったって事か?」
スライドが二枚戻る。
「失礼しました。地表層の観測結果の共有を忘れていました」
グレンの睨みつけるような視線を躱し、重力汚染区域のマップデータを表示する。
サーベイメータを中心に赤いサークルが描画された。
「振動フェルミオンの運動量に大きな変化が見られませんが、それとは別に」
観測日の異なるマップデータが透過で重ねられ、差異のある部分がネオンイエローで上書きされた。
極僅かな違いではあるが、遮蔽の外側に向かった拡大している様に解釈することが出来る。
「地表部の汚染範囲に拡大の予兆が見られます」
ですが、と一度区切って。
「これは最も差異の大きなデータを意図的に重ねた結果であって、これまでの観測結果を平均化すると日毎の誤差の範疇とも言えます。加えて地表部の振動フェルミオン振動量自体は増加していない為、対応に緊急を要するような内容ではありません」
嘘を言っている様には見えないし、仮に嘘だとしたらその意図が分からない。
この場にいる誰よりも四次元物理学に明るい彼の言葉に対して疑問や疑念を投げかける事はいくら出来るが、理論的な討議になる可能性は皆無だ。
彼の知識や能力は十分に信頼に値するし、わざと胡散臭さを演じているような彼の人間性を全面的に信頼する事が出来ないのは個人的な感性に依る。
結局フェリックスの出した結論に対する発言は無く、スライドが一枚進められた。
「次に高濃度汚染区域で観測された振動フェルミオンの運動量です。環境課とは別の区域と比べてもほぼ同等の値ですね」
事も無げに言うものの、仮に棒グラフに置き換えた場合は縦軸に飛びぬけるだろう。
「錨の効果はどの程度なんだ?」
グレンの促しに合わせて表示された数値は地表とほぼ同等まで減退していることが見てとれた。
「この通り、非常に満足のいく結果となっています」
「そうかい」
体重を預けられた背もたれが小さく軋む。
「次です。現地で撮影された横穴の映像記録ですが……」
フェリックスが珍しく言い淀んだかと思えば、口元に手を当てて何かを考えている様にも見えた。
「映像データがあまり鮮明ではないので確証はありませんが、恐らくは旧庁舎とは別の施設群でしょう」
23秒の映像が再生される。
「重力災害の範囲内にあったと思われるショッピングモールの可能性が高いかもしれません」
ノイズのかかった動画は非常に見辛く、一時停止を挟みながら少しずつ進められる。
14秒時点でブティックの看板が確認出来たので恐らくフェリックスの予想は正しいと思われた。
で、あるならば。
一時停止された映像の中央から少しずれたところに立っているオブジェは、アレは、何だ?
両手を降ろしたマネキンの様にも黒い汚水の柱にも見て取れるそれが何であるか認識することが出来ないまま映像が終わり、二度目の再生でもやはり同様の結果となった。
「次の調査目標はこの動画で確認された地点になるでしょう。しかし更に地下へと潜航するには一層目での調査活動を安定させなければなりません。振動フェルミオンの運動量減退状態の維持や潜航ルートの確保、地表層に拠点の設立なども課題としては挙げられます」
フェリックスの羅列したどれもが即座に完了する内容ではなく、また動き出せるようなものでもない。
時期的な目途を立てるのはまだ先になるのだろう。
最後のスライドを終えて、第三会議室は僅かな沈黙で満たされた。
「観測結果は分かった。地表部分の汚染範囲拡大は予兆レベルで実際にどうなってるかがまだ分からんってなら動けないのも分かる。錨を打ち込んだら高濃度汚染区域であっても数値上は人体に影響が出にくくなるって結果も、まあ一歩前進ってとこだろうよ」
ここまでの振り返りを簡潔にグレンがまとめ、全員がその言葉に同意した。
「次の目的も決まったと言えるんだろうが、まずは安全を確保するのが最優先だな。それまでは今の階層にアプローチをかけていくのが精々ってところか」
フェリックスを真っすぐに見ていた視線は、次いでフローロに向けられた。
「アクシデントもあったんだ、慎重にもなろうさ。それで原因は分かったのか?」
この言葉はフローロが体験した一時的な感覚の喪失の事を指している。
「今は分かりません。フローロさんの義体の稼働状況ログから何かしら読み取れるかもしれませんが、そのデータはまだ手元にありませんので」
夜八とリアムに依頼したのでそのうちに結果は出てくるだろう。
「一ついいでしょうか?義体のデータとは別に報告したいことがあります」
フローロの右手が控えめに挙げられた。
「何でしょうか?」
「感覚喪失はスタンロッドの効果試験時に発生したものに似ていました。主観的なものなので類似の事例という確証はありませんが……」
そこに足があるのに動かせないという感覚は、喪失というよりは遮断に近かった。
高濃度汚染区域の振動フェルミオンが重力波を形成し、たまたまフローロに影響したという可能性はあるのかもしれない。
「可能性の一つとして記憶しておきましょう。左手に問題ありませんか?」
生体スキンが剥がれてその下の義体部分が露になった左手。
なんとなく気恥ずかしさを感じて右手でそれを隠す様に遮った。
「整備/開発に見てもらいましたが破損やフレームの歪みはありませんでした。ちょうど隙間に差し込めたんだと思います」
「いつ頃治るの?」
覗き込むリンリン、近い。
「正規品が届くまでは代用のものでとりあえず。業務に支障はないので大丈夫です」
継ぎ目のほとんどない生体スキンはほぼオーダーメイドの特注品らしく、作成にも時間がかかるらしい。
ロナルドに連絡したところ用意出来次第届けると言い出したので丁重にご遠慮してもらい、郵送で対応してもらう事になった。
「安全マージンは多めに取るべきだったな。調査の潜航時間は30分に変更出来ないか?」
「いいですね。次回はその様に設定しましょう」
調査結果によるフィードバックを次回のスケジュールに反映させながら、ようやく最後のスライドに移る。
「ネロニカの回収した資源です」
机の上に置かれたのは金属の円筒ではなく、透明な容器にタール状の液体が納められたものだった。
室内等に照らされて、不気味な虹色が煌めいている。
「既に発電機構の作動実験は行われました。結論から言えば予想通りで、実用可能なレベルの振動フェルミオンを有しています」
フェリックスの笑みを受け取ったネロニカは薄くその表情を綻ばせた。
「安定した供給の為には確保手段やルートの確立に加えて量が必要になります」
「さっきのも併せてやる事は山積みって訳だ。慌ただしいな」
「ええ。ですが、フローロさんに起こった事象の原因究明が最優先されます。安全の確保が第一であると、皇課長から念押しされていますので」
付け加えるように。
「非義体用防護服の開発も進められていますよ」
「そりゃ有難い話だね」
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「――以上が今回の調査報告です」
「ああ……。これは期待通りの結果だったか?」
「お借りしたものも役立ちました」
フェリックスの手に握られたマルクトエディスの換装パーツーー僅かな沈黙が続く。
「フローロの件もか?」
「想定の範囲内ですよ」
細められた視線に込められた意図は読み取れず、フェリックスは苦笑して頭を下げるポーズを取った。
「これ以上失うつもりはない」
「理解しています」
疑わしく聞こえるがそれは本心からの言葉だ。
「ネロニカたちにも防護服の着用を提案します。アートマさんは厳しいかもしれませんが」
「必要であれば用意してくれ」
「分かりました」
簡潔なやり取りを交わしつつ、次回以降の予定が徐々に詰められていく。
「臨時拠点はまだ時期尚早かと思われます。高濃度汚染区域の一階層分は調査を完了させたいところですね」
「錨の製作状況はどうだ?」
「資金が必要です。開闢調査の結果次第で回収が可能な範囲かと」
「地表上層部の拡大の予兆は?」
「僅かに。変動値のブレが気になります」
あらかたの質問を終えると皇は課長用の椅子に背中を預けた。
「進捗があれば報告する様に」
「失礼します」
退室する直前、視線だけで横顔を見た。
歯車の軸に錆び付きは無く、歪みは無く、舞台装置は幕があがるのを待ち、姿を伏せている。
「いいですね」
その耳には届かない。
半壊した逆さまのビルが他の建造物に埋もれている姿が目に入る。
置いてきたわけでもなく、棄ててきたわけでもなく。
あの古巣が今度は明日へと繋がる頼みの綱になろうとは。
「何の因果だろうな」
カシン。
錨は既に下ろされている。
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【錨を振り下ろした日】
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