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【アントシアンの礎石】 Cp.1

皇純香。
胸元から下げているIDに刻まれている名前。
椛重工の応接室に招かれた彼女は、調印された書類を見比べている男性の言葉をじっと待つ。
時折向けられる視線を意に介さず、堂々と、胸を張って。

「確認いたしました」

自分とその隣に座る男性役員――初めて顔を合わせる相手。
それぞれ一枚ずつを受け取り、立会人が深々と頭を下げた。

「椛重工と環境課の双方にとって、この関係が良きものでありますよう」

組織間で結ばれた協力関係は文面を見る限り対等だ。
しかし、組織としての規模を考慮すれば、組織を預かる立場で判断すれば、現時点の関係性はその通りとは考えられない。

「よろしく頼むよ」

堂々とした態度は自らの力に対する自負からくるものだ。
謙遜のない振る舞いはかえって小気味良く、皇は差し出された手を握り返した。

「共に良い環境を作りましょう」


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「役には立ちそうですね」

皇純香が退室して直ぐ、隣の部屋に待機していた椛重工の役員数名が応接室に姿を現した。
結論以外を切り捨てたシンプルな会議のテーマは環境課の評価と今後の進展についてだ。

「先日の対応を見る限りでは、開発施設の警備をいくつか環境課に預けても良いとは思いますが」

「警備会社と同じ扱いは出来ないのでは?仮にも行政機関なのだから、ウチの業務にそこで関わらせてもあまり……」

「出来る事ならば、環境課が主導権を持っているインフラ事業にうまく噛みたいですね。独占は角が立つでしょうから、優先的に見積もりや交渉を行えるポジションに付ける程度が無難でしょうか」

「開発試験機を提供してテスターを兼ねてもらうのも悪くはないと思いますね。労災はあちらの領分になる訳ですから」

所々に問題のありそうな発言が飛び交う輪から外れて一人、祇園寺ローレルはブラインドを下げて窓の外――迎えの車へと歩く皇純香の背中を見下ろしていた。
環境課に向けるものは興味と期待、そのどちらも椛重工の発展を基盤とするものではあるが、この協力関係を真っ先に提案したのは彼だった。

「オヤ……」

振り返った皇純香と目が合った様に感じられた。

「ローレルはどう思いますか?」

凛とした声。

「そうだネ――」

窓の外から視線を外し、この場にいる全員と電脳通信を繋げた。
評価を出すためにはその根拠が必要だ。

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事態は一か月ほど前に遡る。
椛重工のセキュリティ部門から報告が届けられた事が発端だ。
毎日の様に散発的なハッキングが仕掛けられている事を示す資料と対応判断を仰ぐ旨が記された文章を一読する。
侵入経路の序盤で防壁に阻まれている程度の相手であればその内諦めるだろうと放置していたが、一向にその様子はないらしい。
進展のない幼稚な攻撃はダミーで本命が別にあるのではないかと勘繰る要素へと発展し、上層部へと届けられたのがほんの少し前だ。

「気にしすぎだと思うけどネ」

結論から言えばローレルの直感は正しいが、それが対応判断として承認されるかはまた別だ。
管理者クラスの人員を何人か経由して最終的に出た結論は【外部委託にて対応】というものだった。
社内での対応は可能だが懸念事項を抱えた状態であり、もし、万が一、異なる問題に発展した場合の責任はどこにあるのか。
誰も貧乏くじを引きたくはない――その思いから生まれたのはリスク回避を最大限考慮した提案だった。
提出された外部委託機関の候補は三つ。
二つは情報セキュリティとその対応を主業務とした企業だったが、残る一つは環境課――吾妻ブロックを管理する行政機関の名前だ。
発生している問題からも彼らが対応を受け持つ範囲である事は間違いない。

「面白いネ」

環境課にチェックを入れて、

「ここに任せてみよウ。ガイドラインはあったかナ?」


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翌日、環境課のIDを下げた女性が椛重工のフロントを訪れていた。

「環境課から来ました、軋ヶ谷みみみです」

事前に送られてきた顔と名前は一致している。

「こちらです」

案内役の社員に先導される形で二人が通されたのは社員用の情報管理室ではなく、企業説明会などで一般に公開される様な一室だった。
据え置きタイプの端末が数台並んでおり、監視カメラは常に二人を追い続けている。
企業スパイなどを警戒する必要がある以上、例え行政機関であっても無条件で信頼を置くことは難しい。

「お呼び立てして申し訳ないネ」

室内で一つだけ大きめの机――恐らくは管理者用――で座っていたのは祇園寺ローレルだ。

「まだ機密保持契約を結んでいないかラ、悪いケド」

見られても困らない範囲、使われても問題のない場所で。

「ポートは開放されているかラ、好きに使ってくれていいヨ」

肘をつきながら。

「まあ、頑張ってくれたまエ」

明らかに世代落ちの端末を前に、軋ヶ谷は躊躇なく接続を開始した。

「ご自由にってことはさ」

ネットワークに接続して、知覚出来る情報が不十分であると判断。

「椛重工のサーバーを少しだけ間借りしてもいいってことだよね」

誰もそんな事は言っていないが、瞬く間に接続は確立した。
個人の処理能力を超える範囲まで拡大された知覚範囲に一筋の赤が閃く。
強固な防壁に阻まれて散った外部からアクセスのログを逆探知して、辿り着いた先にはいくつかの防壁と攻勢プログラムが待ち構えている。
――それを容易く引き裂いて、情報の塵は完全に消滅した。
時間にすれば数秒もかかっていないだろう。
軋ヶ谷は接続用の端子を取り外し、

「終わったよ」

一分にも満たない間に完了を告げられて、祇園寺は僅かに呼吸を止めた。

「アクセス元の情報と使用されていたプログラムの詳細をまとめたんだけど、どうしたらいいかな?」

「……では私個人宛に送ってくれるかナ?今でイイ」

開かれたアクセスへと通信許可を申請、承認を受ける。
環境課に期待していたのは【ハッキング先の特定】だけだった。
形式上の依頼とその対応を完了した後、自社で片付ける算段を立てていたが、それは良い意味で裏切られた事になる。
軋ヶ谷が取得した情報は期待値を十分に超えていて、一連の作業を短時間で完了させたことからも電子戦に対して卓越した手腕を持っている事は明らかだ。
椛重工のサーバーの処理能力を利用するなど想定の範囲外であり、明確な許可も出してはいない。
ともすれば違反行為と捉えられるはずだが、祇園寺はこれを見なかった事にした。

「こちらでも精査する必要があるかラ、次の話はまた後日にさせてもらうヨ」

「じゃあ今日はこれで」

短い作業に短い会話。
仕事が早い事は歓迎すべきであり、受け取った情報の精度も非常に高い。
出来栄えにも満足しているが、もう一つ。
軋ヶ谷みみみが行った対応の苛烈さ――それが当たり前に行えるという事実。
受け取ったアクセス元のネットワークアドレスに接続を試みるが、信号は途絶している。
拒絶されているのではなく存在していない――焼き切れた電脳に横たわる永劫の闇。
躊躇いも戸惑いも一切感じられなかった事からも、彼女がそうした行為を何度も経験しているのは明らかだ。
そして、それを許している環境課という組織。

「ハハ。面白いネ」


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『対象が潜伏しているマンションの構造データです』

バンで移動中の狼森たちに情報が共有されている最中だ。

『監視カメラの映像を見る限り、昨日から今日にかけて玄関からの出入りはありませんね』

軋ヶ谷が処理を行った当日に移動したハッカー達だが、その移動先は既に割り出されている。
別の位置からのアクセス――使用しているプログラムが同一だった為にあまり意味は無く、潜伏先とその人数の情報が椛重工から提供された。
人数は三人、いずれも非武装という内容だ。
この報告を受けた狼森は自分一人で問題ないと考えたが、皇の指示によってナタリア・ククーシュカがサポートについている。
だが非武装の一般人相手に元軍部所属が制圧に乗り出す事は明らかに戦力過剰だ。
自身の戦闘能力を低く見積もられている訳ではないだろうが、この判断はどこか腑に落ちない。

「ここです」

部屋の前で立ち止まったナタリアは、一応ノックをした。

「管理者権限で解錠出来ます。どうしますか?」

「開けてください。私が最初に踏み込みます」

短い電子音、ドアノブに手をかけてゆっくりと回していく。
勢いよく開け放ち、

「環境課です。ハッキングによる違法行為を――」

反射的に身を反らしたのは危険を察知する経験則からだった。
消音加工された小銃から飛び出した弾丸は空を切って、非武装という情報は誤認であると瞬時に理解。
廊下の先、モニターの明かりだけが照らすリビングには三人の姿がある。
引くか詰めるか、判断に迷ったのは一瞬だけだ。
地を這う様な姿勢で前進してくる狼森に驚愕している彼らは、暴力という分野では明確に素人である。
握りしめた右拳を鳩尾に叩き込まれた一人は悶絶と共に後方に吹き飛んだ。
完全に怯えた二人目が構えるより先に長巻の柄が強かに手首を打ち据えて、骨の砕ける音が聞こえた。
三人目――ナタリアが放電式の警棒を首筋に当てて拘束している。

「これで全員ですか」

一瞬だけ視線が泳いだのを見逃すことはなく、身を潜めていたもう一人は早々と抵抗を諦めた。


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「どういう事ですか?」

狼森は携帯デバイスで環境課へと連絡を入れていた。
相手は皇純香だ。

「対象は武装状態にあり、人数も三人ではなく四人。事前に共有された情報とは全く違います」

元はと言えば椛重工から提供された情報であり、問い詰めるならばあちらの方が正しい。
しかし環境課側での確認作業を怠ったのではないかと反論されることは目に見えている。
水かけ論で損をするのはこちら側なので追及する意味は無い。

「……知っていたのですか?」

だからサポートを付けるように指示をしたのか。

『いや。与えられた情報を完全に信じていなかっただけだ。こうなる可能性も考慮した上でのツーマンセル指示が功を奏したに過ぎない』

当然ハッカー側も何らかの情報は得ているはずと仮定し、どのように対応してくるかは最悪のケースを想定しておくに越したことはない。

『詳細な情報の精査を要求するのではなく、我々が椛重工にとって関係を結ぶに値するかどうか、イレギュラーな状況にも対応出来るだけの力があると示した方が効率が良い』

実銃を扱う相手を三人相手取って無傷で制圧出来る武力は確かにアピールポイントには十分なるだろう。
環境課という組織の拡大に繋がる一手を前進させる為にリスクを冒した、その様な意図。

「次は事前に予想の範囲も伝えて頂けると有難いのですが」

『そうしよう』

通話を終えて、後ろではナタリアが情報係へ転送するデータの回収を行っている。
マンションの一室には似つかわしくない規模の設備だ。
しかし椛重工の防壁を潜り抜けて対抗出来るようなスペックもプログラムも搭載されていない、中途半端な仕上がりだ。
ナタリアが話す内容を軽く耳に入れて、床に落ちた拳銃を拾い上げる。
個人が購入出来るタイプではなく、警備会社などが申請・承認を得て初めて入手できるタイプであることが見て取れた。
明らかな過剰品質で人員と設備が釣り合っていない。
加えて彼らの行動も考えてみれば筋道が通らない。
小遣い稼ぎをするならば何も椛重工ではなく、その下請けなどの小さなところを狙うほうがリスクが少なくスマートだ。
仲間が一人死んでいる状況で、それでも再度アタックを仕掛ける理由はどこか義務感めいている。
浮かぶ可能性を考慮――せず、思考を中断した。

「次はどう動けば?」

あちらの領分なのだ、任せるとしよう。



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