【幾何学ハンカチーフ】

「――はい、結構です。共有を外します」

随分と顔を見慣れてきた学会員の男性はそう言ってフォーカスを切り替える。
フローロの視界を通じて認識出来る蜃気楼に今尚慣れる気配はなく、僅かにふらついた足元に気付かれまいとしっかりと地面を踏みしめた。

「コンタクトレンズつけますね」

精度は日々向上していて、今ではA4用紙を寸分違わずに切り分ける事が出来る程だ。
初めて会った時は何もないところで躓きそうになっていた足取りも今ではしっかりとしたもののように思う。
青から赤へと色を変えた瞳と視線が交差し、二度瞬きをして。

「休日にも関わらずご協力ありがとうございました」

頭一つ分も小さい少女に頭を下げる抵抗は無い。

「いえいえ。お疲れ様でした」

返す様に頭を下げた後、研究棟の出口へと向かうフローロの背中を見送って実験結果の再確認へと思考を切り替えた。
休憩を挟んでいるといっても実験時間は数時間を超える事が多い。
何度も重熱効果を発生させているにも関わらず、フローロの表情に疲労は見られない。
よほど演算能力が高い電脳を搭載しているのか、あるいは高効率の重熱式を使用しているのか、もしくは振動フェルミオンの総量が膨大なのか。
定かではないし自分にとってはどうでも良い事だ。
特筆すべきは切断に関する重熱効果の高さと精度であり、それを支える感知能力もその要因の一つではある。
その反面で切断以外の重熱効果はからっきしであり、彼女自身でなんとか起動させた冷却の重熱効果はマルクトエディスのそれに劣るレベルだった。
アンバランスと言うべきか、さもありなんと言うべきか。
ふと、ただの感想になってきている事に気付いた彼は無人の研究棟を後にすることにした。
続きは自室で進めるとしよう。

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「あら」

メ学のエントランスで見覚えのある桃色ツインテールが揺れていた。

「こんにちは」

振り返って小さく会釈を返したのはネロニカである。

「フローロさんはここで何を?」

「私は重熱効果の実験のお手伝いをしていたところです。ネロニカちゃんは?」

「定期健診です。ド取案件以降は週に一度行っていますから」

"第一規定"に背く行動を取った理由。
強烈な感情を想起した根底を掴みとることが出来ず、時間の経過とともにその実感は薄れていった。
淡々と作業をこなす姿をグレンは可愛げが無くなったと評していたが、その在り方は自分が思う自分の姿に合致している様に感じている。
異常と診断された部分は軒並み正常判定を受けていて、次の検診は呼び出しがあればになるだろう。
フローロはネロニカの横顔をしばらく眺めていたが、やがて小さく微笑んだ。

「私はこの後庁舎に戻りますが、ネロニカちゃんも一緒に行きませんか?」

今回の健診は終了していて、その誘いを断る理由も特にない。

「分かりました」

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十数分後。
二人がいたのはショッピングモール内のブティックだった。

「お客様にはこちらのゴシックパンクなどがお似合いになると思いますよ!如何でしょうか是非試着して頂ければ!」

ネロニカの前には頬を微かに紅潮させてハイトーンでまくしたてる女性店員がいて、両手に下げた白黒の衣類をもって迫ってくる。
若干気圧されながらフローロに視線を向けるが、あちらはあちらで別の店員と話している様で助けは期待できない。

「いえ、結構です」

「お気に召しませんでしたか?ではこちらの――」

めげる気配が無いので適当にあしらいつつ周囲へと視線を向ける。
市街の復旧状況の報告は毎日確かめていたが、こうして自分の目で見るとなるほどと得心が行くことが存外多い。
工事中のエリアは視界の範囲内には無く、こうした嗜好品の店舗も陳列棚がどれも埋められている。
店の前を過ぎていく人の表情は明るく、聞こえてくる声の数は喧噪と呼んで差し支えないほどだ。
一通りを見渡して正面に向き直ると、先程とは異なる服を今度は三着も抱えて持ってきている姿が見えた。

「私よりあっちの人に勧めてはどうですか?」

指さした先でフローロが眺めているのは淡い色合いのカーディガンだった。
決して派手ではないが大人しさと可愛らしさが合いまった商品と言えるだろう。
青、緑、そして桃色の三つから悩んでいる様で、その様子を見た店員は颯爽とフローロの横に張り付いた。

「お悩みですか?そうですねお客様にはこちらの――」

矛先が逸れた事を確かめて店の外へと足を運ぶ。

『少し寄り道しませんか?』

フローロの提案を何故だか断ろうとは思わなかった。
以前フェリックスと共にお茶会を過ごした時と明らかに異なる雰囲気をまとっていて、一体何がそうさせたのかは皆目見当がつかないでいる。
詳細は知らないが、恐らく彼女も自分と同じく純粋なヒトではない――なかった――のだろう事は予測出来ている。
だからこそああも変わってしまうものなのかと困惑が無いといえば、さて、どうだろうか。

「お待たせしました」

ぼんやりとした思考はそれなりの時間を経過させた様で、フローロの手には大きな紙袋が提げられている。

「ネロニカちゃんは気になるお洋服とかありませんでした?」

「いえ、特には」

何も買わないか言われたものをとりあえず買うかの二択で言えば今日は前者だった。

「どこか行きたいところとか、見たいものとかあります?」

「そうですね――」

ネロニカが提案したのは下の階にあるホームセンターだった。

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ハンマー、鋏、糸鋸、パイプレンチと様々な工具を見て回ったがどうにもお気に召すモノが無かったらしく、結局何も買わずにショッピングモールを後にした。
庁舎へと向かう道中は特に会話も無く、けれど沈黙は苦痛ではない。

「今日はありがとうございました」

エントランスの階段で別れる直前、フローロがそう切り出した。

「いえ、私は別に何も」

「一緒にお店を見て回ってくれたでしょう?」

その程度、という反論はフローロの笑顔に抑え込まれた。

「なので、これはお礼です」

紙袋から取り出されたのは桃色にラッピングされた何か。

「開けても?」

「どうぞ」

少したどたどしく開封して、中から出てきたのは真っ黒なハンカチーフだった。
端に幾何学模様らしき菱形のモチーフが白い糸で刺繍されている。

「……ありがとうございます」

「またお買い物行きましょうね」

フローロは返事を待たずに解体室へと足を進めて。
絶妙に間を外されたネロニカは上げかけた手をハンカチへと移し、その感触を確かめていた。


偶々知っている人と出会って、なんとなく買い物へ行って、それとなく約束を取り付けて。
何も特別ではない、ありふれたただの日常。
お休みの日に丁度良い、誰にでもある普通の時間。
いくつもの丸が重なっているデザイン違いのハンカチーフは、桃色のラッピングの中で蛍光灯の光を待っている。


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【幾何学ハンカチーフ】

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