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赤穂浪士引き揚げ巡検 実施報告(前編)

こんばんは、鈴です。

先日赤穂浪士引き揚げ巡検の事前企画編として忠臣蔵鑑賞会について書きましたが、やっと巡検報告本編を書いていきたいと思います。流石に合格発表前には書いて新歓期に間に合わせようと思っていたのにこんな時期になってしまったことに関しては心から懺悔します。まさかの巡検実施から二ヶ月経ってしまった…。

ちなみに今日は3月14日ですね。松の廊下刃傷事件が発生した日です。高輪ゲートウェイ開業2周年でもあります。と言うわけで、流石に3/14には間に合わせるか…と慌てて書いたのが本記事になります。

なお、割と長くなりそうな気配がしたため前中後編と3回に分けてお送りいたします。元々午前午後で2回に分けようと思っていたけども3/14に書き終わりそうにないから3回にしたとかではありません。決して。はい。

企画概要

日程 1月15日(土)

集合と解散 JR両国駅西口改札付近10:00/ 泉岳寺16:00

参加者 8名

討ち入り後の赤穂浪士が、吉良邸から泉岳寺まで引き揚げたルートを辿りました。ちょうど討ち入りのあったのとほぼ同時期の開催となりましたので、寒い中当時に想いを馳せながら歩くことができました。また、赤穂浪士関連の場所を辿るだけでなく、隅田川に関連して橋や街との関わりの歴史を見たり交通関連の遺跡を訪れたりと様々な場所を巡る巡検となりました。

なお、コロナの感染者がちょうど増え始めた時期でしたので、感染防止対策をしっかり行なっての実施となりました。体調不良のため大事をとって参加を控えてもらった人も複数人おり残念ではあったのですが…。その方々も本記事で雰囲気だけでも感じて頂けたら嬉しいです。

両国駅〜両国橋

10時に両国駅に集合しました。普段昼過ぎに起きる私も「主催が絶起は流石にやばいな…」と思い気合いで8時くらいに起きました。参加者のグループラインに報告したらみんな反応してくれたの優しいですね。

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そして、参加者全員寝坊することもなく時間通りに集合(私より生活リズムがやばそうな参加者もいたのに偉い)、自己紹介をして巡検が始まりました。

集合場所となった両国駅はいち総武線の駅に過ぎませんが、かつては房総への玄関口としてのターミナル駅として重要な機能を有していました。開業は1904年、総武本線の前身である総武鉄道の駅として、長らく房総方面への中・長距離列車の発着ホームとして広い構内設備を持って活躍しました。その名残は両国駅3番線ホーム(現在は臨時列車の発着ホームとして稼働)や、荘厳な駅舎からも窺えます。また、駅北側には広大な留置線と貨物設備があり、隅田川の水運と結びついた貨物ターミナルとしての一面もありました。現在ではその跡地に両国国技館と江戸東京博物館が建てられています。しかし1972年に総武快速線が開通、1974年に房総路線の電化が行われると、次第に房総の玄関口の役割は東京駅へと移行していくこととなりました。

そして最初に向かったのが、赤穂浪士の引き揚げの始点である吉良邸跡です。ここから、吉良邸に討ち入り本懐を遂げた浪士たちが泉岳寺に引き上げるまでの道筋を追っていくことになります。

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吉良邸と言うと吉良上野介がずっと住んでいたようにも思われますが、実際に吉良がここに住んでいたのは一年ちょっとであったと言います。と言うのも、元々呉服橋(現在の東京駅のそばあたり)に屋敷があったにも関わらず元禄14年9月3日、松の廊下事件の半年後にここ本所松坂町に屋敷替えとなって移り住んできたのです。討ち入りが元禄15年の12月14日ですから一瞬の屋敷だったと言えるでしょう。

ちなみに本所への屋敷替えが行われたのは、前の屋敷の隣に屋敷を持っていた人が吉良邸への討ち入りを警戒し昼夜厳戒態勢を敷き、疲弊したため嘆願を行なったからだと言います。前の屋敷があった呉服橋は外郭内であり大名屋敷が多く並ぶ場所だったのに対し、本所は人気の少ない郊外であり、幕府が赤穂浪士を討ち入らせるための措置だという噂まで流れました。

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現在吉良邸跡として残されている敷地は小さいですが、討ち入りで命を落とした吉良家家臣の碑、討ち入り後浪士たちが吉良の首を洗ったと伝わるみしるし洗いの井戸、吉良上野介の座像(上の写真)などを見ることができます。ちなみにこの座像は吉良家の菩提寺である華蔵寺に現存する、吉良上野介が五十歳の時に自らが造らせた寄木造の座像を元に制作したもの。そのため、実際の吉良の雰囲気を知ることのできるものと言えます。

次に向かったのが、すぐそばの回向院です。

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討ち入り後、浪士たちは態勢を整えるために回向院に向かいましたが、面倒を恐れた回向院が暮六つから明け六つまでは山門をあけないという寺の法を盾に入山を拒否したため、浪士たちは泉岳寺までの引き揚げを行うこととなりました。

なお、回向院は明暦3年(1657年)に開かれた浄土宗の寺院です。同年にあった明暦の大火で亡くなった身元がわからない無縁仏を弔うため、当時の将軍家綱の命により作られました。江戸後期には勧進相撲の場所が回向院に定められ、1909年に境内の北側に国技館が設けられるまで江戸相撲はここで行われていました。ちなみに1909年に建てられた国技館は1917年に火災で焼失、再建するも1923年関東大震災で焼失、また再建されるも太平洋戦争中陸軍に接収され、風船爆弾の工場となり、更に東京大空襲で焼失という何回焼けるんだ…という歴史を辿っています。戦後は占領軍に接収されたことで国技館は蔵前に移りましたが、その後1985年に再移転し、今の両国国技館が完成しました。

回向院を有名にしているものの一つが、鼠小僧次郎吉の墓の存在です。

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鼠小僧は化政期 (家斉の頃)の盗賊で、大名屋敷のみを狙って盗みに入り、逮捕時には家から金品が見つからなかったため貧しい人に施しをしたという伝説が生まれ義賊と言われてきました。ただし、実際は酒や博打に浪費していただけなんだとか。この義賊伝説から、歌舞伎や小説、ドラマなどで多く取り上げられることとなりました。ちなみに私は滝沢秀明さんが次郎吉を演じた「鼠、江戸を疾る」というドラマ(原作は小説)が大好きで、リアルタイムで見てどハマりしていた記憶があります。タッキーかっこいい。

鼠小僧の墓に手を合わせた後、次に向かったのは両国橋です。

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歌舞伎などでは引き揚げる赤穂浪士たちが両国橋を渡っているように描かれますが、実際は渡っていません。と言うのも、本所から泉岳寺に行くには隅田川を両国橋で渡って江戸市中に入るのが一般的なのですが、そのルートだと武家屋敷街を通らなくてはいけません。十五日は大名・旗本の総登城日にあたっており、両国橋は登城路であったため、不測の事態を避けるべく両国橋を渡らず、そのまま墨田川を南下して町人の街を行くコースをとりました。

なお、事前企画である忠臣蔵鑑賞会で見た1958年の忠臣蔵では、浪士たちに同情的な小門伝八郎が両国橋ではなく萬年橋を渡るようアドバイスし、両国橋を渡ろうとした浪士たちはそれに従って引き返すという演出がされていました。割とあるある演出な気もしますが、実際には普通に大石らによる判断でしょう。

さて、両国橋のたもとには二つの石碑が置かれています。

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手前の小さい方の「日の恩や たちまち砕く 厚氷」 と書かれたものは説明がなさすぎて何だこれ…という感じですが、実はこれも赤穂浪士に関係しています。赤穂浪士の一人である大高源五が詠んだと言われている歌なんだそう。調べた限り真偽の程は謎なのかな?という感じでしたが…。ちなみに大高は俳諧に通じていた文化人だったため他にも逸話があり、討ち入り前夜に宝井其角と「年の瀬や 川の流れと 人の身は」「明日待たるる その宝船」と読み合う場面の方が有名かもしれません。こちらに関しては歌舞伎「松浦の太鼓」の題材ともなっています。

大きい方の「表忠碑」、この流れでいくとこっちも赤穂浪士関係か?と思いきやこちらは別物。日露戦争の戦死者の慰霊碑でして、書は日露戦争では満洲軍総司令官大山巌によるものです。

また、両国橋のすぐ側には赤穂浪士休息の地の看板があります。

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これは両国橋東詰だった場所で、当時は石置き場として使われていました。ただ休憩ではなく、体勢を整えて上杉家の追手を迎え討つためとも言われています。(上杉家と吉良家の関係については事前企画編の記事の中で説明していますのでご覧ください)

両国橋〜亀堀公園

両国橋は渡らないので一度ここでUターンして隅田川沿いに歩いていくことになります。歩いて行くと、最初に渡ることになる橋が一之橋です。今「いちのはし」と打ったら第一変換候補が「一橋」でした。何も間違ってはいない。

この橋の名前の意味は「隅田川から堅川に入って一番目にかかっている橋」。六之橋までかけられ、一之橋以外も今でも名を残しています。堅川は1659年、幕府の指示によって開削された運河です。東西の方向に流れているので「横川」の方が良いのでは?と思いますが、「江戸城に対して縦」という意味なんだとか。

一之橋を渡ってしばらく道なりに歩くと、旧新大橋跡の石碑があります。新なんだか旧なんだかよく分からないですね。ちなみに現在も新大橋はありますが、かつての新大橋は現在より下流にかかっていました。

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この橋の名前は「大橋」と呼ばれていた両国橋に続く橋、という意味で、架橋は元禄6年(1693年)、討ち入りの約10年前と比較的近い時期に作られました。また、歌川広重の描いた「名所江戸百景」の中で「大はしあたけの夕立」という絵の題材として描かれており、この絵はゴッホが模写をしたことでも有名です。確か中学生の歴史の教科書に載っていたような気がします。

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引き揚げ当時この辺りには駕籠屋の溜まり場となっており、浪士たちは怪我人や老人のために駕籠を雇いました。ちなみに浪士たちの中で最高齢は76歳です。すごい。ここで「最年少は何歳だったと思いますか?」とクイズを出したらすぐ正答してくれた人がおり、流石すぎてびっくりしました。最年少は大石内蔵助の息子、大石主税で、討ち入り当時15歳です。私が忠臣蔵好きになったのはその年齢を越す前だったのですが、いつの間にか15歳がだいぶ年下に思える年齢になってしまいました…。

さらに道なりに進むと、次に渡ることになる橋が萬年橋です。葛飾北斎の富嶽三十六景「深川萬年橋下」では美しい太鼓橋として描かれている橋で、船の航行を妨げないように橋脚を高くし、大きく虹型に架けられていました。

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また、荒川下流域から萬年橋の辺りまで、小名木川が東西に流れています。しかし荒川側(江東区東部一帯)は高度経済成長時代の工業用水のくみ上げにより地盤沈下が発生し0m地帯となってしまったため、隅田川側とは3mほどの高低差が存在しています。そのため、パナマ運河よろしく、水位差を克服するための閘門を見ることができます。

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その後は萬年橋を渡って少し歩いたところにある亀堀公園で、少しの休憩を取りました。私たち数人が近くのコンビニにおやつを買いに行き、戻ってくるとブランコや鉄棒で遊んでいるメンバーが多数おり、「大…学生…?」と首を傾げました。ブランコを本気で(水平になるくらいまで)漕ぐ青春って良いですね。

終わりに

さて、一度目の休憩までで前編は終わりたいと思います。ここまでで既に5000文字近くあることに動揺を隠せません。もし全部読んでくださった方がいたらめちゃくちゃありがたい限りです…。

このあと中編、後編も近いうちにお送りしますので、楽しみにお待ちください。ありがとうございました!

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