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【新歓発表】地理と風水 -運勢の地理学-

3か月前、春休みは勉強頑張っちゃうぞ~~と息巻いていたのに、結局2,3月はサークルの仕事とお出かけで忙殺されていました。こんにちは、アインズ副代表・総務(巡検担当)のツェルモニ(@oki_slo)です。

さて、04月02日に新歓発表#1として僕が「地理と風水 -運勢の地理学-」というタイトルで発表させていただきました。この記事では、その発表の内容を大雑把に紹介していきます!

ところで新入生の方は、よっぽど僕のTwitterを漁ったりしていない限り、ツェルモニって誰やねん!状態だと思います。なので、今までこのnoteサイトに投下した記事をテキトーに載せておきましょう。

どうしてこんなに書いているのかな???


首都移転について -導入編-

さて、突然ですが皆さんは日本の首都を移転するとしたらどこにしたいと思いますか。それには、利便性とか経済的な優位性、自分の郷土愛とかいろいろ判断基準はあると思いますが、最近盛り上がっているのは岡山首都移転説とかいうヤツです。活断層が通っていなくて地盤が強いから日本特有のウィークポイントである災害の多さを避けることができるといったような理由で、吉備高原が新たな首都に移転にふさわしいということですね。

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ところで、一橋地理2019第1問は首都移転がテーマの出題でした。2次で地理を選択された人はこの問題覚えていることでしょう。著作権的にここに問題を乗っけるわけにはいかないので、見たい人は東進のなんたらデータベースでも見てください。この大問の問3では、エジプトの首都移転について問われました。エジプトの現首都であるカイロは昨今人口が急増して交通渋滞公衆衛生など様々な都市問題が噴出している状況です。そこでエジプト政府はカイロの東50kmの場所に新首都を建設する計画を現在進行形で推し進めております。しかしその首都、カイロから東に50kmってことは、ナイル川からも同時に50㎞程離れている砂漠のど真ん中にあるわけなんです。そのことに関して、じゃあなぜ新首都がその立地に選定されたのか、その理由が問3では問われました。私は日本史で二次受験しているので、某データベースから模範解答を引っ張ってきました。それによると、戦略的な海運の要衝であるスエズ運河に近いから経済活動の拠点として期待できる、スエズ運河を一帯一路構想の要衝として重要視している中国からの資金援助があるといった要因があるらしいです、はい。

しかし僕が今回焦点を当てたいのは、この問3に関してではありません。なんせ未だ風水の"ふ"の字も出てきていませんから。このエジプトの首都移転には裏テーマ(自分が勝手にこう呼んでいるだけですが)がございます。有史以来エジプトの首都はナイル川沿いに作られてきました。これはナイル川が営みのオアシスとして機能していたというのはもちろんなんですが、ナイル川はエジプト神話の原初神にあたるヌンと古来同一視されていました。ナイル川を見ることができない砂漠上の地に首都を作るというのは、「神々の守護なき赤い土地」に首都を作ることだといえます。つまりエジプトの首都の立地は近代に入って神話と決別したという見方もできると思います。

さて、では少し国家の首都の立地について一般化してみましょう。国内政治を円滑に行うための政治的立地条件、国民の生活維持のための経済的立地条件、外部からの威嚇に対処するための軍事的立地条件については古今東西問わない普遍的な条件なのですが、前近代では場所に一種の象徴的な意味を帯びて内在化されている立地条件が関係しているということが多々ありました。エジプトの首都でいうと先ほど言ったエジプト神話になぞらえたナイル川との関係なのですが、東アジアでは古来「風水思想」によってこの条件を捉えていました。


ということで今回のテーマはこちら!

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前置きが長くなりましたが、ここからが本編です()


風水とは -理論編-

ではまず風水とは何ぞやということですが、風水思想では大前提として地中には地気というものが一定の径路に沿って流れているのだという考え方があります。そしてその地気を探し出して吉を求めて凶を避けるというのが風水の根本的な目的です。もう少し言い換えると、「風」と「水」つまり風水という地上の可視的な現象を観察することで、不可視的な自然の原理である「気」を探る方法論だということができます。

ここで風水の歴史について少し紹介します。風水の始まりは古代中国は殷・周時代にあった卜宅(ぼくたく)に発します。卜宅は宅地や村落の吉凶を占うもので後の風水の基礎となりました。特に7c頃の唐の時代から風水は非常に盛んになり、2つの学派に大きく分立したり技術も発展しつつ、現在の風水に至っています。風水は中国から韓国、日本にも広く広まり、東アジアになじみの深い思想となりました。最近ではマレーシアやインドネシアなどの東南アジアにも広がりを見せています。

では日本にいつ風水が伝わったかというと、飛鳥時代、歴法を持ち込んだ観勒が持ち込んだことによるとされています。ただ注意したいのは日本の風水は独自の発展を遂げたために、本家本元である中国のそれとはややアレンジされたものとなっています。あと、沖縄では特に風水思想の浸透が深く、中国から伝わって以来「フンシー」という名でつい最近まで親しまれてきた文化で、今も存在している集落の立地とかを見ても風水の影響が感じられるほどらしいです。

次に風水の根本となる地気について説明を加えます。地気とは簡単に言えば「地表上の万物をはぐくむ生命力・活力」となります。東洋人は古来、地気は存在していて、山だったり川だったり植生だったりと地理的な特徴と可視的につながっているのだと信じてきました。つまり風水は「気」によって生じていて、また風水の判断は気のありかを探り気の流れを読み取る思想だといえるのです。

では次にその地気というものを感じてみようということで、地気を感じ取る際の姿勢についてです。地気を感じて自らに幸運を呼ぶために、最も重要なことはよい地気を探し出すことではありません。物欲を捨てて無心の境地の状態で自然に相対することです。心を空にしてかつ何より自然に対して深い愛情をもって接すれば、自然は地気を帯びて人間に接してくれるというわけです。

風水と地理学の関係

東アジア、ことに中国では、風水が地理の見方として機能して、風水思想は東洋において地理学そのものであったと言えるんですが、西洋で発達してきた地理学とは地理の見方に関して決定的な違いがあります。西洋地理学では、大前提として止まっているものを対象として扱っています。大地を人間という主体から切り離して対象化して、機能と便宜性を第一に据えて、所有と利用の対象としか見ようとしない地理観、土地観が根底にあるということです。一方風水という東洋地理学では、大地を生きたものとして扱っています。風水的思考を持つ東洋人は、大地を大切にし、時には畏怖の念を持ったりするわけで、大地には情を持った観念が作用するということになります。昨今の地理学は専ら西洋地理学が中心で、我々の大地は開発だとか近代だとかの美名の名の下に変質され、非人間的な空間構造へと転落してしまい、地球規模の環境破壊が問題になっています。そういう末世だからこそ、大地と人間が互いに助け合う風水の本質に回帰するべきだという論調が出てきています。なんかこういうのは大学入試の現代文でよく出がちなヤツなので聞いたことがある話かもしれませんが、風水思想と関係を持っていたわけですね。

もう少し風水と地理学の関係性について触れてみようということで、環境決定論についてのはなしです。環境決定論っていうのは大学の人文地理学系の授業で絶対触れられると思うんですけど、簡単に言えば、人間の地域的な生活様式は人間の自由選択によるものではなく、外的な自然環境によって必然的に決定されるのだという考え方ですね。例えば、「温暖湿潤な気候の地域では、その気候に適した米の生産とそれに伴う文化が存在し、冷涼乾燥な気候の地域では、同様に小麦の生産とそれに伴う文化が存在する」という考えは、典型的な環境決定論です。この環境決定論はラッフルズという地理学者によって19世紀の後半に唱えられて以降地理学の主流の考え方だったんですが、どうやらこの環境決定論が間違っているケースが多々存在するらしいぞと批判が高まって、この環境決定論は廃れていきました。また同時にこの環境決定論を支持していた地理学という学問も当分の間冷遇されていた過去があります。そして環境決定論に取って代わられたのが環境可能論です。環境は人類の活動に対して可能性の場を提供しているだけに過ぎない,環境から可能性を引き出し、現実のものとするか否かは人間次第というものです。それでじゃあ風水はというと、地気の良し悪しによって人間の運勢が左右されるという意味で環境決定論に似ているんじゃないかと思われがちですが、風水の考え方はこれとは決定的に違います。風水では気の流れを読み取って自然に人間から作用を加えることによって、気の流れに乗ずるような生活空間を構築します。すなわち、あらかじめ与えられた地気という環境に適応しているというのではなく、地気を媒介にして自然と人間が相互に働きかけあっているというわけです。つまり風水は環境決定論でも環境可能論でもなく地人相関論という考え方的なものが基盤になっている思想だということです。


吉地をさがそう -実践編-

先ほどよい気を探す三大判断材料として山・水・方位を挙げたので、順にみていきたいと思います。まず東洋地理学では山を龍に例えています。そもそも龍に例えられた地勢判断の吉凶がなぜ生じるのかといえば、それは神秘力である地気は山の山頂に発してやまなみを伝って平地に降りてくる、あたかも龍が頭から這うようにして平地を下るさまを想定しているからだといいます。では吉地はどこにあるのかというと、龍の動きがあるところでして、龍脈の中で突起した龍脳という小高い丘にあります。逆に凶地は龍の動きが停止するところあるいは龍の動きがそもそもないところとなります。そして山並みの中で最も吉があるのは、穴けつという緩やかな窪地で、龍がとぐろを巻いて漂っているがごとく、地気が最も集中して貯えられるところです。

まとめるとこうです。

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水も重要な風水判断のひとつです。水は雨となって人間その他に天の恵みを与えるだけでなく、山に発して下流の人間界へと流れる地気の流れの一つとなっています。このような神秘的な水の流れは動態的なものでないといけなくて人造物その他によって妨害してはならないし、あえて水流を妨害するような場合には地気は悪影響を及ぼすことになります。つまり、水による神秘力を貯水池という穴に貯えることで吉地とすることができますが、完全に流れが停止してしまっては、吉地ではなく悪の神秘力が及ぶ凶地となってしまいます。

今述べた山と水を見て地勢を判断するというのは、あくまで山や水があっての判断だったので、それらが乏しい起伏の少ない広大な平原な場合には、方位判断は欠かせぬ道具でした。この方位による吉凶判断に用いられたのがコンパスで、コンパスにはあらゆる神秘力の作用判断ができるように、幾重にも同心円状に地占(じうらない)の記号が描かれて層をなしています。特に中国のコンパスには写真の通り非常に多くの吉凶判断の項目が描かれていて、多いものでは盤上には三十八種もの項目に及んでおり、少なくとも方位の吉凶には二種以上の判断にわたっています。

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これら山水方位のほかにある特徴的な地勢判断に四神相応というものがあります。四神は東西南北四方に想定された雷獣で、それぞれ青龍、朱雀、白虎、玄武のことを言います。東に川があれば青龍、南に池があれば朱雀、西に道があれば白虎、北に山があれば玄武という具合に、大地の四方をつかさどる四神の存在が理想的な四神相応の地を指すということです。

平安京がこの四神相応の地になっているという話は有名なので、平安京の例を用いて説明したいと思います。東の賀茂川を青龍、南の巨椋池(おぐらいけ)を朱雀、西の山陽道または山陰道を白虎、北の船岡山を玄武と、このように四神が四方位に対応していて、京都は四神相応の地だと言えるでしょう。

また中国にはない日本独自の風水思想のひとつに鬼門というものがあります。もともと鬼門という考え方は中国から伝わったものなんですが、日本の鬼門は陰陽道を基本に神道、仏教などの考え方も加わり、日本独自の思想へと発展しました。まず、世界最古の地理書としても名高い山海経(さんがいきょう)にある死者の霊魂としての出入り口が北東方向にあってそれを鬼門とする伝説を由来としています。また反対の南西方向も裏鬼門と呼ばれていて、この2つの方向を鬼の出入り方角として忌む習慣が日本にはあります。

少し閑話休題として、今回の発表のエピソードをちょっと紹介します。首都移転に関して調べていると、首都移転についていろいろな方面の専門家が語っている記事をまとめたサイトが国土交通省のホームページにあって、そのなかに由緒正しき本物の風水師の方の記事が見つかって読もうとしたらですね、写真の上の所を見てほしいんですけど、ここのページだけでなぜか絵にかいたような文字化けが発生していて、なんかやっぱり風水って恐ろしいななんて思いました。

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結界に守られた江戸城? -オカルト編-

家康が江戸に入封した当時の江戸はというと、太田道灌が江戸城を建設してからだいぶ時間がたって荒廃した状態でしたが、ではなぜ家康が江戸に入封してより江戸は発展し続けて、江戸時代は165年間もの間存続し、今もなお日本の首都としてあり続けているのかといえば、江戸城、そして江戸の街が風水に則って作り上げられたからなのではないかといったオカルト話があります。1590年に徳川家康が江戸に入封して以来、江戸の街づくりを進めていきましたが、その家康に助言を与えていたのが南光坊天海という僧でした。この展開はいまだ謎に包まれた部分も多いんですが、彼は天台宗の僧で、下野の足利学校で風水を学んだといわれています。関ヶ原の戦いの前後で家康の宗教政策のブレーンとして使えるようになり、関ヶ原の戦いで勝利した後、家康が幕府を開く際の本拠地を相談したときに、江戸が最適だと助言した人物こそが天海であるという説があります。

ではなぜ江戸が最適であると判断したのかについては、先ほど平安京の例でも紹介しました四神相応が関係しています。16世紀の江戸もまた、東に神田川の支流である平川、南に低湿地と江戸湾、北に麹町台地、西に東海道があって江戸は四神相応の地だとかいうんですけど、正直北の玄武にあたる山が麹町台地というのでは少し弱い気がしますし、白虎の道とされている東海道も南に近い西だということで、やや強引やないかと僕はにらんでいます。

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では次に天海はどのように江戸の町を作り上げていったのかについてです。まずは江戸城の堀に着目してみますと、写真のように江戸城の堀は「の」の字を描くように作られました。これは江戸城に集まった地気が「の」の字のように螺旋状に街へと広がっていきますようにと願ってのことだといいます。しかし私が思うには、水の流れを人為的に変えたり、せき止めたりすることは水の道理に逆らうことと同じことであり、環境面での不調和をもたらすのではないかということで、江戸城の堀の整備は決して風水に適っているとは限らないのではと感じてしまいます。

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最後に江戸城の鬼門についてです。一般的に江戸城の鬼門は上野の寛永寺と神田明神、裏鬼門は芝の増上寺と赤坂の日枝神社だと言われていますが、本当にそうなのでしょうか。この4つの寺社を線で結んでみたとき、1本だけその線上に天守閣が乗ります。それは神田明神と日枝神社を結ぶ線です。この2つの神社については、最初は神田にも赤坂にもなかったのですが、江戸城築城にあたって江戸のそれぞれの地に勧進されました。また江戸城の天守閣は3度場所を移転したんですけど、この3つの点は、それぞれに場所を移動させながら、北東の軸線上に3点が乗るように移動されました。じゃあ、寛永寺と増上寺は鬼門ではないのかといえば、そういうことでもありません。寛永寺と増上寺を結ぶ線上に何があるのか、それは今も大手町の地に残っている将門塚です。将門というのはかの有名な平将門であり、将門塚は平将門の乱で敗れた彼の首を祀った塚のことです。つまり徳川家康、そして天海は江戸の建設をする際、遥か昔平安時代に関東一円を席巻し「新皇」を称していた平将門の力を借りていて、将門塚の鬼門としての意識も存在していたということであります。家康は神田明神と日枝神社を天守閣の鬼門裏鬼門に据えるために場所を移動させた後、遺言として国家安寧のために全国に東照宮の創建を命じました。有名な日光東照宮なんかもその一つです。江戸にも寛永寺と増上寺の境内に東照宮がおかれました。ここで僕が思うのは、東照宮を上野と芝の地に建立することで、明確に将門塚の安寧を意図していたのではないかということです。このように、江戸は7世紀以上も前に生きた平将門を強く意識した都市空間でもあったと考えることができます。

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以上いろいろと述べてきましたが、まとめに入ります。祖先たちがどのようにして歴史的建造物を建て伝えたのか、風水研究はその思想を復元する研究であります。そして風水研究に最も近い学問分野というものが地理学で、古来東洋人、ひいては中国人にとっては風水思想は地理学そのものでありました。そしてあとは江戸城の風水に関して言えば、鬼門のはなしだったりとても興味深いものもあるのは確かなんですけど、想像が膨らんでオカルト化しているものも多いんじゃないのかなと個人的には思いました。でも風水を踏まえて江戸の都市構造を再解釈できる可能性があるんじゃないかなということで、今後その研究をする興味も出てきました。


以上で発表を終わります、ご清聴ありがとうございました。


以上で失礼させていただきます、最後までお読みいただきありがとうございました。

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