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国立巡検2022 実施報告

おはコロこんちんパ、1期の@oki_sloです。

先日、アインズで「国立巡検2022」を実施しました。今回の記事ではその実施報告をしたいと思います。

なお当巡検は、一橋大学の定める活動指針を遵守して実施しております。

実施概要
日程 06月に2日程に分けて開催
集合 国立駅(JR中央線)南口 17:15(※4限終了に接続)
解散 西国立駅(JR南武線)前 20:15
歩行距離 だいたい8kmぐらい

昭和初期より一橋大学が座する街、国立。この春に入学した一橋 1 年生の方々も、国立で の大学生活に慣れ始めてきたのではないでしょうか。
当巡検では、東京商科大学の移転から始まった文教都市としての国立の歴史を紹介した後、多摩川の営為によって生まれた立川崖線が作り出す国立市南部の特徴的な地形を堪能します。地味なようで奥深い国立の街への理解、そして愛を深めることを目的としました。
ちなみに、この巡検は元々新歓期の04月に行われる予定でしたが、延期して実施する運びとなりました。

見どころマップ(地理院地図より作成)

なお、本記事に掲載している写真は、特段の注釈がない限りすべて筆者が撮影したものになります。

国立旧駅舎

国立駅は1926年に開設された。国分寺と立川の間にあることから、両駅から1文字ずつとって国立となったわけである。開設当初からひときわ目を引く存在であった三角屋根の国立駅舎は中央線の高架化に伴い2006年に取り壊しとなったが、2020年には復元を果たした。しかしこの復元までの道程は長いものであった。そもそも大正末期に建設された旧駅舎は、現代の法律からすれば建築基準や消防に適合していないのだ。そこで国立市は旧駅舎を文化財に申請し、建築基準法や消防法の規制を緩和した。また復元費用は9億6000万円にも上り、国からまちづくり交付金の認可をもらったり、ふるさと納税や住民からの寄付も募らなければならなかった。ではなぜここまでして国立駅旧駅舎の復元に躍起になったのかといえば、ひとえに赤い三角屋根の木造駅舎がただの鉄道の乗降場であっただけではなく文教都市として歩む国立の歴史のシンボルであったことによる。なお、旧駅舎の中にあるピアノ(誰でも弾ける)はSchimmel Pianos(シンメル ピアノ)というドイツのブランドのものである。それには理由があり、学園都市としての性格が強い国立の街はドイツ中央部の大学都市であるゲッティンゲンにならったとされており、そのSchimmel Pianos社がゲッティンゲンと同じ州にあるという関係性があったのだ。

一橋大学

今ある国立の街の発展のキーパーソンであったのが西武グループの創始者であり各地の不動産開発を手掛けてきた堤康次郎であった。堤は軽井沢や箱根、渋谷道玄坂などの開発に成功してきたが、彼の野望であったのが大学町の建設であった。大学町とはいわゆる学園都市、大学都市のことである。まず彼が大学町の建設を試みたのは、武蔵野鉄道(現西武池袋線)沿線である大泉学園であった。しかし大学の誘致を行ったものの、不便な同地への立地を名乗りをあげた大学はひとつもなかった。次に堤がターゲットにしたのが国分寺であった。国分寺は当時から西武国分寺線が走っていたが、堤が経営していた武蔵野鉄道とは当時はまだ別会社であり、両社はライバルの関係にあった。そんなライバル会社の沿線を開発していた点からも、堤の大学町への野望がいかほどであったのかを伺える。国分寺学園都市の計画は順調に進み、明治大学の誘致が決まったが、整備直前で明治大学側の反対論が高まり、計画は白紙に戻された(なお後にこの国分寺には東京商科大学が移転してきて、現在の一橋大学小平国際キャンパス(いわゆる小平寮)となっている)。しかし堤は大学町の建設を諦めず、次にターゲットに据えたのが、まさに国立であったのである。一方、当時の東京商科大学はというと、現在の千代田キャンパスが位置している千代田区竹橋にあったのだが、関東大震災の影響で校舎が倒壊している状況にあった。そこでキャンパスを再建する必要があったことに加え、千代田キャンパスが狭小になってきたこともあり、郊外の広い土地を探していた。そこで堤と東京商科大学両者の利害が一致したことで、東京商科大学は国立の地に移転してきた。

へぇ、ここが一橋大学か~!

大学通り
大学通りは片側2車線の車道に、その両側には緑地と広々とした歩道が整備され、幅員が40m以上の中々ない規模の道路であるが、それには大学通りが元々滑走路として使用されていたという説がある。しかし、古くからの地域住民の声を聞くと意見が割れており、また離着陸したと確実に判断する資料もなく、謎のままだ。それはともかく、国立の大学町の都市計画を担当したのは西武グループの中島陟という人物であった。彼が作成した都市計画に書かれた道路を見て、先の堤康次郎はあまりに広すぎると猛反対したが、南満州鉄道で都市建設を行っていた後藤新平は「道路は幅広いほうがいい」と諭し、現在の大学通りとなった。国立の街の構造は国立駅が中心となっており、放射型街路と直交路型街路が組み合わさった形となっている。直交路型街路というのはいわゆる碁盤上の構造で日本にも古くからよくあるものである(京都や長安など)が、その一方で放射型街路は西洋によくみられる構造(例えばパリでは凱旋門を中心に12本もの道路が放射状に延びている)である。つまりこの2つの融合というのは、西洋文化を積極的に取り入れ始めた大正期の時代変化の名残を感じ取ることができる。こうした国立の都市構造と似たものがよく見られる地域が存在する。それは南満州で、奉天や長春は非常に国立のそれと類似している。南満州という言葉にピンときた人もいるかもしれないが、このことには、南満州鉄道初代総裁を務めたあと関東大震災時の帝都復興院総裁を務めていた後藤新平の経歴が深く関係していたのである。このことについては一橋地理2013で触れられている。

こぞって桜並木と撮るあの歩道橋

クリオレミントンヴィレッジ国立(国立マンション訴訟)
国立の大学通りのサクラ並木は、学園都市国立のシンボルとして市民から長く親しまれてきた。そんな時1989年、国立市では商業地の高さ規制を撤廃し、容積率を大幅に緩和した。容積率とはゆとりのある建物を作るためのルールで、敷地面積に対する延床面積の割合のことを指す。容積率が緩和されたことで、高度建築の計画がたびたび持ち上がり、その都度市民や市と争論を巻き起こしていた。そのために、国立市は1998年「都市景観形成条例」を制定し、対象地域内に20m以上の建造物を建設する際には業者は市と事前協議するよう定めた。しかしその条例が制定される段階で、すでに建設業者である明和地所はクリオレミントンヴィレッジ国立の建設を始めていたのである。これに対して市民が、日照権や景観が損なわれると反対運動を起こしたのである。しかし、現に建設工事中の建物については規制対象としないと建築基準法で定められている。いわゆる法の不遡及の原則である。しかしこの反対運動が生まれた背景には、一筋ではいかないねじれが存在していたのである。実は当時の市長であった上原公子氏が、住民集会の中でまだ内部情報であった明和地所の建築計画を暴露し、反対運動に火をつけていたのである。またその上で上原市長は執拗な行政指導を繰り返し、電気ガスの供給留保といった妨害行為を行っていたのである。その結果、業者が国立市を訴えた裁判では、国立市側に2500万円もの賠償命令が下ったのである。さらにその2500万円の賠償金(利子を含めると3120万円)の支払いを国立市民が上原元市長に弁済を求める裁判を起こし、結果上原元市長は敗訴に至り、個人の財産で賠償金を支払うこととなった。話が横に逸れたが、これとは別に住民が業者を訴えた景観民事訴訟がある。この裁判では、地裁は地権者は景観利益を有するのであり、高さ20mを超える部分の撤去と慰謝料の請求を認めた。しかし一転して最高裁では、景観利益は保護に値するが権利ではないのであり環境及び景観に対する利益はそれのみで法律上建築を差し止める根拠にならないとして請求を認めない判決を下した。

しかしこの明和地所、国立市から支払われた3120万円を、裁判で自らの正当性が証明されたとして、のちに国立市に寄付しているからすごい(すごい)

谷保天満宮
903年にかの有名な菅原道真が亡くなった際、三男の道武が自ら道真の像を刻み祀ったのが始まりとされる。東日本最古の天満宮とされ、湯島天神亀戸天満宮と並んで関東三大天神となっているほか、交通安全発祥の地でもある。地名や南武線の駅名では「やほ」と読まれているが、本来は「やてんまんぐう」である。「やぼ」の地名の由来については後で詳述する。
ところでこの谷保天満宮の境内は高低差が激しい。この高低差はなんであるのかというと、立川崖線(たちかわがいせん)というものである。立川崖線は、古代多摩川が南へ流路を変えていく過程で武蔵野台地を削り取ってできた河岸段丘の連なりのことで、青梅から狛江までの約40kmの長さにわたって続いている。立川崖線の北には同じような国分寺崖線が存在していて、国立駅の北の辺りを東西に横断している。立川崖線の下の部分は多摩川の洪積低地、立川崖線と国分寺崖線の間の部分は立川面という段丘面の平地、国分寺崖線の上の部分は武蔵野面という段丘面となっている。

すべての地形にはちゃんと成因があるのです。

田園地帯
東京では数少ない田んぼの広がる田園地帯が国立南部には残っている。なぜこの地でコメ作りが盛んであったのかについては先述の立川崖線が関係している。崖線の下では一般的に湧水が豊富であることが多い。地表に染み込んだ雨水や雪解け水が、地下深くの砂や小石などが詰まった地層へと浸透し、水を通しにくい地層の上を高い位置から低い位置に向かって移動していき、そして段丘崖などの地層が露出している部分から湧き出すためである。そこで相対的な水が豊富な立川崖線の下である洪積低地には田んぼが、相対的に水が乏しい立川段丘面には畑が発達したのである。これについては、「谷保」の地名の由来が関係している。谷というのは本来「ヤツ」で、湿地帯を意味していて、谷保地域が水田に適した土地条件を持っていたということを地名が語っている。保は末端の行政組織のことであると考えられ、「谷間にひらけた集落」の説がある。そのほか伝承では、国立から北東に15kmほど行ったところにある武蔵野台地上の保谷の地域で農作物の不作が続き、新たな開墾地として谷保に移り住み、保谷の出自を忘れないために谷保と地名を名付けたというものもある。
同じように、古代では武蔵国のお役所である国府が現在のJR府中本町駅近くにあるが、それは立川崖線の下部に、武蔵国の国分寺も国分寺崖線を下ったところに位置していた。このように古代より武蔵国の土地利用形態は水の豊富さに左右されていたのである。つまり古代より国立一帯で発展していた地域というのは立川崖線の下部であったのであり、現在の中心地である国立駅周辺が発展してきたのは、広い歴史を概観してみれば、20世紀以降というごく最近の話であったのである。戦後には町制改正により谷保村から国立町に改称した。

山梨県国立市

谷保の城山
谷保の城山という史跡は、中世の国人である三田氏という一族が構えていた館跡である。城主はいまだに明確になっていない。谷保の城山は、立川崖線と並んで小さく続いている青柳崖線の段丘面の端に位置している。この自然地形を活かして曲輪と土塁が作られていた。谷保の城山一帯は「歴史環境保全地域」に指定されており、武蔵野の自然環境がよく残されている。

これが武蔵野の原風景

ママ下湧水
崖線は古くより「ハケ」や「ママ」と呼ばれており、先述の通りハケ・ママの下には湧水が多く、矢川のママ下湧水は現在もそのこんこんと湧くその姿をこの目で確認することができる。このママ下湧水には後で行く矢川緑地と同様に非常に多様な生物が生息しており、絶滅危惧種であるホトケドジョウを含め小型の水生生物やカモの親子連れがみられる。湧水は年間を通して17℃を維持しておりひんやりしている。

一橋の池に棲みついているカモはどこから来ているのか。

以降は、特に深い解説もしなかった(決してサボっている訳ではない)ため、飛ばし気味に巡検を振り返ると、

中央道が照らす夜景に一息ついたり
矢川緑地で怖い思いをしたり
解散したりしました。

いかがだったでしょうか。対面での課外活動が5か月ぶりに解除されて以来、初の巡検となった今回は、国立市内をぐるっと回りました。見慣れた国立の見慣れない一面を知る機会になったと思います。たぶん来期の巡検担当くんが、また新歓期に「国立巡検2023」をやってくれることでしょう。

アインズでは、これから続々と巡検活動を行っていきます。これを読んだあなたも次の巡検に参加してみませんか?

以上、国立巡検の実施報告でした。最後まで読んでいただき、ありがとうございました。


主な参考文献
三角屋根の旧駅舎復活、学園都市「国立」の軌跡 | 駅・再開発 | 東洋経済オンライン | 社会をよくする経済ニュース (toyokeizai.net)
朝日新聞デジタル:大学通り 謎の「滑走路伝説」 国立(1) - 東京 - 地域 (asahi.com)
佳景探訪 - 谷保の城山 (東京都国立市) (natsuzora.com)
・貝塚爽平(2011)「東京の自然史」
・地理院地図


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