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東急沿線開発巡検 実施報告

皆さん、「おにぎり」って言うより「おむすび」って言う方が響きがなんかかわいいですよね。こんにちは、oki_sloです。

先日、当サークルアインズで「東急沿線開発巡検」を実施いたしました。本日は、その実施報告ということになっちゃいます。ということで早速参りましょう!行くぞ行くぞ行くぞ行くぞ行くぞ行くぞ行くぞ行くぞ行くぞ行くぞ行くぞ行くぞ行くぞ行くぞ行くぞ行くぞ行くぞ行くぞ行くぞ行くぞ行くぞ行くぞ行くぞ行くぞ行くぞ行くぞ行くぞ行くぞ行くぞ行くぞ行くぞ行くぞ

実施日:07/24(日),08/11(木・祝)
集合:二子玉川駅16:00
解散:多摩川駅20:00
歩行距離:9.1km
経路図:下図参照

※途中、等々力駅から自由が丘駅までの区間は東急大井町線に乗って移動しました。
※当巡検は、一橋大学の定める活動ルールに従って、実施しております。

北西が二子玉川駅(起点)、南東が多摩川駅(終点)


凡例

それでは、本編に入りましょう。 


・二子玉川
二子玉川は通称「にこたま」といいます。二子玉川駅は現在東急田園都市線と大井町線が乗り入れていますが、駅が開業したのは1907年のこと。当時は玉川電気鉄道(玉電)という路線の駅で、玉川駅という名前でした。二子玉川は、江戸時代には近くを走る大山街道の宿場として栄え、多摩川の川岸には茶屋が集まっており、明治時代になると現在の駅の東側は料亭の集まった歓楽街へと発展していきました。玉電が開通されると周辺の住宅地が開発されて人口が急増するようになり、1922年には玉川電気鉄道が、駅の東側に、後に二子玉川園となる玉川第二遊園地を開設しました。さらに戦後になると、1969年駅の西側に玉川髙島屋S・Cが開業します。これは当時日本初の本格的郊外型ショッピングセンターでありました。髙島屋は出店地の選定にあたり、東京の城南方面を商圏としてカバーしたいと考えていたのです。最初は、城南方面からの各路線(東急田園都市線及び東横線)が集中する渋谷への出店を検討していましたが、すでに競合店で埋め尽くされており出店の余地がなく、ほかの街を探すことになります。しかしあくまで都内にこだわり、神奈川県内への出店は全く考えていなかったといいます。これは多摩川を一歩渡っただけで店舗価値やブランド力が大きく下がると髙島屋が考えていたからのようです。そこで出店地として自由が丘と二子玉川が候補に上がりましたが、当時の地価がそれほど高くなかったことや多摩川の眺望の良さ、また二子玉川園を訪れる家族連れで既に賑わっていたことなどが決め手となり、二子玉川への出店が決定されました。週末になると、二子玉川は城南地域からの来店客で大いに賑わうようになり、東急田園都市線の一大商業拠点に成長しました。そのためか、二子玉川は世田谷のセレブな街としてイメージが定着していきました。その一方で、駅の東側の活気は失われていったのですが、1980年代になると再開発計画が持ち上がるようになりました。当初は、オフィスと商業施設の開発を計画していましたが、バブル崩壊によってそれらの計画に暗雲が立ち込めたために、高層マンションの建設が一部に盛り込まれたのです。最終的に、都内最大級の再開発計画にまで発展し、2015年に二子玉川ライズが開業することになりました。

デカい(駅東側)

デカい2(駅西側)

・二子玉川公園
こうしたようなオシャレな住みよい街というイメージがある二子玉川ではありますが、致命的な弱点が存在しています。2019年に首都圏を襲った台風19号によって、二子玉川の街は大規模な浸水被害に見舞われました。洪水版ハザードマップ(下図参照)を見てみると、多摩川の流域の中でも二子玉川は予想される浸水被害レベルが一際大きいことが分かると思います。ではなぜ二子玉川は水害に弱いのでしょうか。多摩川は今でこそ堤防に囲まれた地を流れておりますが、数百年から数千年前は氾濫を繰り返していたために川筋は一定ではなく、現在ある多摩川沿いの平地はそもそもとして大昔の氾濫原でした。氾濫原だった平地は、雨が降ればすぐぬかるみます。道路を整備し維持するのが大変です。そして先の台風19号の水害はというと、多摩川の堤防が決壊したのではなく、無堤防の場所を越水してマンションが被災しました。前述の通り、二子玉川の多摩川沿いには料亭が集中して立地していたが、料亭は川の見晴らしを重視して、歴史的に川の堤防建設に反対していたのです。それゆえに、やむなく国土交通省は80mほど内側に堤防を建設することになりました。そして2000年代に入ると、かつての料亭の跡地が再開発されて高層マンションが建てられることになりましたが、その立地というのは実は堤防の外側であり、いわば河川敷にマンションを建設するようなものだったのです。

図のだいたい真ん中がにこたま
(洪水・内水氾濫ハザードマップ(多摩川洪水版)データより引用)
いいはなし


・国分寺崖線
関東平野西部に広がる広大な武蔵野台地。その武蔵野台地に、多摩川は河岸段丘を作りました。その河岸段丘の段丘面として主なものに下末吉面、武蔵野面、立川面があり、この順に高位の面から低位の面へと並んでいます(下図参照)。このうち、基本的に武蔵野面の南の境目となる段丘崖が国分寺崖線であり、その名の通り国分寺のあたりから北西-南東方向に田園調布のあたりを過ぎるまで、非常に長く続く崖となっているのです。また、立川面及びその下部の立川崖線は世田谷近辺において沖積面に埋もれて消滅してしまっており、多摩川に最も近い段丘崖が国分寺崖線となっているため、国分寺崖線の上からは時折多摩川の両岸の低地を望むことができます。

多摩川の河岸段丘の模式図(葛飾区史より引用)
バカきちぃ坂(国分寺崖線)を登りました。

 
・上野毛
「野毛」という地名は、東京都世田谷区側にも、多摩川を挟んだ神奈川県川崎市側にも存在しています(下図の赤く囲った部分)。どうしてでしょうか。ここで、下の地形分類図をご覧ください。図の青い部分が多摩川の旧河道です。どうでしょう、旧河道がだいぶ蛇行していることが分かるかと思います。多摩川は非常に蛇行していた時代では、現上野毛と下野毛が一つの集落となっていましたが、護岸工事をして多摩川の河道を真っすぐにしたことで野毛の集落を分断することになってしまったのです。簡単に解説した図が下であります。

地理院地図を加工しました。

 

クソ雑解説図


・等々力渓谷
等々力渓谷は東京23区唯一の渓谷として知られています。等々力渓谷は、そこを流れる谷沢川が作り出した険しい地形が特徴で、自然公園として自然が豊かに残されています。コンクリートジャングルの東京で自然を求める多くの人々がここを訪れる人気スポットです。周囲の等々力の住宅街とは一変した異質な空間となっています。渓谷沿いには、武蔵野台地を形作る地層を観察することができる箇所があり、特に礫層と粘土層の間からは湧水がこんこんと流れ出ていますが、私は地学ょゎょゎ人間なので、あまりよくわかりませんでした。ちなみに、とりわけその湧水の多い場所は「不動の滝」と呼ばれて不動明王が祀られており、等々力不動尊の起源となっていたりします。

渓谷の中はとってもヒンヤリしている
アホな企画者は谷沢川に足突っ込んだりしていました。

 ・河川争奪
では、この等々力渓谷はいかにして作られたのでしょうか。成因については未だ確定的な証拠がなく、謎のままであるのですが、有力な説の一つである河川争奪についてここでは紹介したいと思います。等々力渓谷を流れている谷沢川(やざわがわ)という川は、用賀方面より武蔵野台地上を南東方向に流れていますが、等々力駅付近で河道をほぼ90度直角に曲げて、等々力渓谷を作りながら多摩川に注いでいます。しかし周辺の色別標高図(下図参照)を見てみると、谷沢川が河道を東から南へ90度曲げた以降も、東の方向に谷の地形が連続していることが分かります。大前提として河道の形と谷の形は基本的に一致するものであるため、かつての谷沢川上流は河道を曲げて南に流れることなく、そのまま東に流れていき九品仏川水系に合流していたのではないかと推測されます。確かに、南に河道を90度曲げるよりも、東にそのまま流れるかつての河道の方が、自然な地形だと言えますよね。では、なぜ現在の谷沢川の河道は90度に曲がっているのでしょうか。その理由のキーワードとなっているのが「河川争奪」なのです。もともと初期の谷沢川は、国分寺崖線の湧水を水源として南の多摩川にすぐに注いでいました。しかし、その水の湧き出す力が強く、崖線を北へ北へと浸食していき(これを谷頭浸食といいます)、ついに、その北側を西から東に流れていた九品仏川へと達するようになります。すると、それまで九品仏川の上流を流れる水は、東へ流れる九品仏川よりも、南へ流れる谷沢川に流れて、多摩川に注ぐようになった。谷沢川は、その九品仏川上流の水を奪ったということで、河川争奪というのです。そして、九品仏川を奪い取った谷沢川は水量を増したために浸食力も強くなり、等々力渓谷を形づくっていたとされています。

谷沢川のクネクネ
こっちは真面目な解説図(地理院地図を加工して作りました)
凡例


・逆川

一方、谷沢川に水を奪われてしまった九品仏川下流は水量が少なくなっために浸食力が弱まり、両岸を浸食しないようになりました。その状態が続くと、その辺りの九品仏川下流の河道は谷沢川のそれよりも標高が高くなったため、河川争奪地点に向かって、逆に今度は東から西へ水が流れるようになってしまいました。武蔵野台地の地形は基本的に西高東低で、一般的に台地上を流れる川は旧九品仏川のように西から東に流れるのですが、その川は東から西に流れるために逆川と呼ばれるようになりました。現在では、逆川は暗渠化されてしますが、いわゆる暗渠サインは等々力駅周辺に多く観察することができます。ちなみに、この逆川のように、河川争奪の結果、流量が減って、その流量に見合わない広い河谷だけが残った川のことを、地理学の用語で「無能川」などというのですが、このネーミングセンスいいですよね。

暗渠暗渠暗渠暗渠暗渠暗渠暗渠暗渠暗渠暗渠
 

・東急大井町線
二子玉川と大井町の間を結ぶ東急大井町線は、田園都市線のラッシュ時の激しい混雑を緩和するためのバイパス路線として重要な機能を持っています。しかし、この東急大井町線の自由が丘―二子玉川の区間は、未だに高架化や地下化の改良工事がされておらず、狭い街中のど真ん中を走っているのです。そのため、踏切が多数あるほか、途中の九品仏駅ではホームの長さが足りずにドアカットせざるを得ない状況です。これには訳があり、地下化の工事を行うと、等々力渓谷の湧水を妨げ、渓谷の自然が損なわれる可能性があると、地元で反対運動が起こったためです。 

BIG井TOWN線

・自由が丘
自由が丘は東京城南地区を代表する住宅街であり、「住みたい町ランキング」では例年上位を連ねるような人気の街です。大規模な商業施設が中心の二子玉川と比較すると、自由が丘は小規模な服屋やレストランが目立ちます。特に、有名パティシエが手掛ける洋菓子店が集結したスイーツ激戦区として知られていたりします。マリ・クレール通りなど、街並みはヨーロッパの雰囲気を醸し出しており、そういったところが女性に人気の理由となっているのでしょう。通りに設置されたベンチに腰掛けるマダムたちが談笑している様などを見ると、まさにヨーロッパ的だと言えます。自由が丘の一帯は1927年に東急東横線が開通するまでは竹やぶだったのですが、鉄道開通後は急速に住宅地として発展が進みました。1933年に、日本初のモンブランを販売する洋菓子店が自由が丘に店を構えると、文化人がその店にこぞって集まるようになり、以降自由が丘は「高級な街」としてイメージされるようになったのです。なお、自由が丘は「丘」という名前がつきながらも、実際の地形を見てみると、周囲に比べて低地であることが分かります(下図参照)。自由が丘の辺りには、九品仏川が、現在は暗渠化されているが、流れているのだ。喧噪な繁華街となっている自由が丘も、ひとたび坂を登れば閑静な住宅街の様相を見せます。この自由が丘の地名の由来となったのは、1927年にこの地に設立された自由ヶ丘学園という学校でした。大正デモクラシーの中、自由主義教育を掲げたこの学校の影響力は大きく、「自由ヶ丘」という言葉は文化人を中心に支持を得て、住民の間でも急速に広まっていきました。

地図中央が自由が丘(地理院地図を加工して作りました)
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アチアチなのでアイス休憩
辺りはもう暗くなってきました

 ・田園調布
田園調布の住宅街は、1923年田園都市株式会社という不動産開発会社によって開発されました。この田園都市株式会社というのは、渋沢栄一によって設立された、のちの東急不動産の母体企業です。渋沢栄一は、イギリスの経済学者ハワードが提唱する「田園都市(Garden city)」を理想に掲げて、田園調布の都市計画に投じたのです。実際の街づくりを手掛けていた栄一の4男秀雄は田園都市の開発に先立ち、田園都市の先駆であったロンドンのレッチワースやその他欧米の街並みを視察したこともあります。駅を中心に放射状に広がるエトワール型の道路はパリの凱旋門の周辺を参考にしたといいます。道路にはイチョウの並木が植えられており、広場と公園を整備して、さながら街全体が公園となりました。こうした優れた住環境を求めて、東京の富裕層が田園調布に移り住むようになったのです。
しかしこの日本型の田園都市は、実際にイギリスなどで見られる田園都市とは、かなり性格を異にします。ハワードが提唱していた本来の田園都市は、「大都市から離れ、自然と共生した職住近接型の都市」を意味していました。当時のロンドンは人口が集中が激しく、人々は遠距離通勤や劣悪な都市環境に苦しまざるを得ない状況である中、人口3万人程度の限定された規模の、自然と共生し、自立した職住近接型の緑豊かな都市がハワードによって「田園都市(Garden city)」として提唱されて、郊外のレッチワースに建設されたのです。一方の日本の田園都市は、東京に付随するベッドタウン的性格が強い住宅街と言えますし、田園調布もまさにその一例です。あくまで自然豊かな住環境は、週末に家族とのんびり過ごすためのものなのでした。
現駅舎と西口広場の間に立つ優美な建物は、田園調布駅の旧駅舎です。「マンサード・ルーフ」という中世ヨーロッパの民家をモチーフにしたもので、現在に至るまできれいに保存されています。エトワール型の道路形状は、分譲に不便であったり、道路の面積が肥大化したりといった点で経済的に不利益がある一方で、行き先が見通せないゆえに歩行者に好奇心を抱かせたり、沿道の多くの緑が視界に入らせて人々を癒したりと、田園都市の演出家として欠かせない存在となっています。

住宅街なのでプライバシーを配慮してゐます


 ・田園調布台
地田園調布周辺の色別標高図(下図参照)を見てみると、周辺の台地に比べて10mほど高くなっていることが分かるかと思います。武蔵野面の淵に当たる国分寺崖線の標高差はだいたい20mほどで一定ですが、田園調布周辺の標高差は30mほどで、実際に田園調布の台地の淵の坂を歩いてみると、その標高差が一般的な国分寺崖線の坂よりも大きいことが感じ取れます。この台地は田園調布台と呼ばれています。先述の通り、多摩川の河岸段丘は、上から順に下末吉面、武蔵野面、立川面と大まかに分類することができ、国分寺崖線は基本的に武蔵野面に面する段丘崖なのですが、ここ田園調布台だけは飛び地のように下末吉面に分類されているのです。つまり田園調布は周囲に比べて明確にもう一段高い台地となっているわけですね。この地形的特徴は、田園都市株式会社が掲げていた理念「土地高燥にして大気清純なること。」「地質良好にして樹木多きこと。」に合致しており、なぜこの田園調布に田園都市が築かれたのかの理由の一つになっていると考えられます。

地理院地図を加工して作りました。
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多摩川の河岸段丘の模式図(2度目の登場)

・多摩川浅間神社
鎌倉時代に創建された由緒正しきこの多摩川浅間神社。出陣する夫源頼朝の身を案じて、頼朝の後を追っていた北条政子が、この地でわらじの傷が痛んだため治療をしていた際に、亀甲山を登ってみると、富士山が鮮やかに見えたといいます。そこで政子がこの地に、身に着けていた正観世音像(しょうかんのんぞう)を建立したという歴史に由来しているのです。社殿までの参道には多数の富士山の溶岩が置かれており、富士塚のように富士登山を模しているとのことです。この地からは、多摩川を挟んで相対する武蔵小杉の地にそびえたつタワマン群を見ることができます。特に夜になると、煌びやかに輝くタワマンが美しい夜景を演出してくれます。是非この武蔵小杉の街も、いつかの巡検で訪れたいところです。 

夜の神社ってなんかいいですよね
虚構

今回行った「東急沿線開発巡検」では、二子玉川、等々力、自由が丘、田園調布と多摩川沿いの多くの街を歩いて回りました。多摩川が作り出す地形は非常に特徴的であり、それらの街はその地形と共に生きています。そして、これらの街の発展にはいつも東急がいました。東急の各路線の沿線開発と共に街は成長を刻んでいき、街と東急のブランドイメージはいつも一心同体にありました。しかし、二子玉川の台風被害のように、一変オシャレな街も、ひとたび自然の猛威が襲い掛かると、その地理的な脆弱性が露わになることもあります。東急の開発の功罪を議論することはしませんが、今後の街の開発と発展からは目が離せないところです。


最後までお読みいただきありがとうございました!感謝感激阿部寛。

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