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エリオット・ロジャーのマニフェスト邦訳プロジェクト_パイロット版①前書き~第一章『祝福されたはじまり』

わたしの最近の動画を見てくれてる方々はご存じのとおり、2014年にカリフォルニア州のアイラビスタで、不穏な犯行声明をネットに送信してから二十人の若者を殺傷する凶悪なテロを起こした(しかし本人の思想の壮大さにひきかえれば小規模な惨劇におわった)、インセル神エリオット・ロジャーがのこした「マニフェスト」の日本語版をただいまわたしは執筆しています。

PDFファイルで137ページにもおよぶ英文を翻訳するのです。調子がよくても一日一ページ程度しか進みません。とにかく時間がかかるので、形にして発表するまでまだ二か月はかかるのではないでしょうか。
さりながら、あまり人を待たせてばかりでも心苦しいので、翻訳がおわった部分の一部をここでさきに公開しておくことにします。『Introduction』と『Part One/ A Blissful Beginning/ Age 0-5』をお読みください。

『僕のねじれた世界~エリオット・ロジャーの物語』 by Elliot Rodger

前書き

 人類よ…僕のこの世界での苦しみのすべては人類、とくに女性の手に握られていました。人類が一つの種としてどれほど残忍でねじれているかが思い知らされました。人類に調和してそのなかで幸せな人生を生きることが、求めていたすべてだったのに、のけ者にされて拒絶され、孤独で無意味なままでの生存に耐えるように強いられて、すべては人類の「女性」が僕の価値を理解してくれなかったからです。

 これは、僕―エリオット・ロジャーがどうしてきたかの物語です。これは僕の全人生の物語です。それは暗い、悲しみと怒りと憎しみの物語です。残酷な不正にたいする戦いの物語です。この壮大な物語で、僕はつまびらかにするつもりです、僕の人生のすべてのディテールを、僕の卓越した記憶力から引き出した重要な体験のことごとくを、そしてその経験がどのように僕の世界にたいする見解を形作ったかも。この悲劇はおこる必要がありませんでした。僕は物事がこんなふうになってほしくなかったのに、人類が僕の手に強制しました。そのいきさつをこの物語で説明します。僕の人生は暗くねじれた状態で始まったのではありません。善良で純粋だと信じていた世界で充実した生を生きる、幸せで祝福された子供として始まった…

パート 1
『祝福されたはじまり』 0-5才

 1991年7月24日の朝、ロンドンの病院で僕は生まれた。たったの5.4ポンドの体重でこの世界に飛びこみながら、僕は最初の息を吸った。僕の両親はその日、きっと幸福と誇らしさでいっぱいだっただろう。彼らは自分たちの最初の子供が生まれたことを確認すると、エリオット・オリバー・ロバートソン・ロジャーと名付けた。

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 両親が若いときに僕は生れた。父ピーター・ロジャーは30才の母チンを身ごもらせたときに、たった26才だった。ピーターはイギリス系で、名門のロジャー家の出身である。ロジャー家はかつて、世界恐慌で財産のすべてを失うまで裕福な上流階級の一部だった。父の父、ジョージ・ロジャーは有名なフォトジャーナリストであり、一家の財産を取り戻すことには失敗したけど、第二次世界大戦中に有名な写真を撮った。僕の母は中国系である。マレーシアで生まれて、若いときにいくつかの映画のセットで看護師として働くために渡英し、ジョージ・ルーカスとスティーブン・スピルバーグをふくむ、映画産業のとても著名な人々と友人になった。彼女はジョージ・ルーカスとさえ一時デートしたことがある。

エリオットの両親


左:実父ピーター・ロジャー      右:実母リー・チン                     

母と父は、僕を妊娠する二年前に結婚した。実のところ、母の妊娠は一つの事故だった。彼女は妊娠を避けるためにピルを飲んでいたのに、父の映画セットを訪問したときに体調が悪くなって飲んだ薬が、ピルの作用を阻害して、この期間の性交が僕の命を結実させた。
 僕の誕生からたった二か月後に、僕ははじめての旅行にいった。両親は僕を船でフランスに連れていった。この時もはやトラベラーだったなんて!もちろん、この旅の記憶はありません。母がいうには、僕はたくさん泣いていた。僕が生まれたその時、母と父はロンドンの家に住んでいたけど、僕が生まれてすぐに田舎に引っ越すと決めた。まわりに広大な芝生がある、サセックス州の赤い煉瓦のおおきな家に僕たちは引っ越した。家には『古い牧師の館』という名前すらあった。ここは僕が人生の最初の五年間の幼少期をすごしたところであり、美しい場所だった。この家で過ごした時期について僕が覚えているのは、無上のよろこびと幸せだけである。
 父はそのころプロの写真家だった。映画監督になるためのステージにすぎなかったけど。母は、家で僕の面倒をみるために、看護師としてのキャリアを捨てた。僕がアー・マーと呼んでいる母方の祖母は、母をたすけるためにいっしょに引っ越してきた。このころ、アー・マーといっしょに多くのときを過ごした。
 これは探検と興奮と楽しみの時代だった。僕がこの新しい世界に入ってきたときは、やがてふりかかる痛みをまだ知らなかった。人生を無垢な悦びとともにたのしんだ。草原で遊んで、アー・マーおばあちゃんといっしょに木の実を摘むために、遠くまで歩いた。おばあちゃんはいつも、草原にときどき生えている、とげがあるイラクサに触らないよう僕に注意した。でも好奇心のほうがまさっていたので、なんどか刺された。裏の庭にはブランコがあり、そこでよく楽しんでいた。
 覚えている最初の誕生日は、三つのときだった。両親は草原でパーティーを開いて、ヘリコプター型のバースデーケーキをあたえてくれた。僕の友だちの親が最初のピースを切り分けて友だちにあげたのを覚えている。僕が最初のピースをもらえると信じていたので、かんしゃくを破裂させて怒った…それはとにかく僕の誕生日だったのだ。僕が乗って遊べるトラクターの玩具をお父さんが買ってくれたので、そのあとずっとそれで遊んだ。
 三つのバースデーのあとのいつだったか、僕たちは休暇にみんなで、お母さんの母国マレーシアにいった。その休暇のときのことは記憶の切れ端しかない。とっても楽しかった。お母さんの親類の家をいくつか訪問した。

 幼稚園は、僕たちが住んでいた場所の近くにあった、田舎の高所得者向けの私立男子校『ドーセットハウス』に入園した。制服を着るよう強制されたが、膝までの不快な靴下を履かなければならないのでが大きらいだった。僕はとても神経質になって、初日に幼稚園で泣いてしまった。二人の友だちの名前が思い出せる――ジョージとデビッド。二人といつも砂場で遊んでいた。
 僕はドーセットハウスがあんまり好きでなかった。ルールが厳格すぎるのに気づいていた。いちばん気に入らなかったのは、フットボールをする時間だった。僕は一度もゲームを理解していなかったし、フィールドで他の少年たちにぜんぜんついていけなかったので、いつもゴールキーパーのそばに立って“二人目のゴールキーパー”のふりをしていた。僕のお気に入りは、昼ごはんのあとに森で遊ぶ時間だった。とくに、登攀する遊具がとってもたのしかった。
 幼稚園のクラスみんなで公園に遊びにいって、僕が迷子になる不運にみまわれたことがある。みんながお昼ご飯を食べているときに、僕は公園の別のエリアに冒険にいった。僕が戻ったときに、みんなはもう移動していた。パニックになって見知らぬ人に助けをもとめたのを覚えている。僕にとっては怖ろしい経験だった。話しかけた知らない人が、みんなのところに連れて行ってくれた。
 学校でみんなで写真を撮ったときの、笑える出来事をひとつ覚えている。脚を組んで座るよう命令されたが、僕はそうするのがとっても嫌だったので、断固として写真のためにその座り方するのを拒んだ。先生はついに折れて、写真には一人だけちがう座り方をしている僕が写った。

 長期休暇は、僕にとって最高の時期だった。イングランドはすごく寒かったはずなのに、僕は寒さを覚えていない。覚えているのは、どんなに楽しかったかだけだ。外に雪が降り始めたらワクワクした――雪の中で遊ぶのは大好きだった。雪だるまをつくるのをお父さんが手伝ってくれたことがあった。小さな雪玉からはじめて、地べたを転がして雪だるまの胴体をつくった。そしてそれをデコレーションした。
 クリスマスのあいだ、両親はいつもパーティーと集まりを催した。お父さんのいちばんの友だちで僕の教父(子供の洗礼の立ち合い人)でもあるクリストファー・ベスが、ひんぱんに家に来た。僕たちは、スマーデンとケントにある、父方の祖父母の家によくいった。お父さんに寄り添いながら、おばあちゃんを“ジンクスおばあちゃん”と呼んだ。おじいちゃんのジョージ・ロジャーについての僕の記憶は、乏しい。彼はその時期に、病気で倒れていた。お父さんの兄弟ジョニーおじさんには、僕より一つ下の息子がいて、おじいちゃんにちなんで名前はジョージだった。ジンクスおばあちゃん家の庭で、そのいとこのジョージといつも遊んだ。二人はとても仲良しだった。
 大みそかに、うちの隣人がうちの隣の原っぱでたき火パーティーを開いたことがあった。大きなたき火に僕は魅了された。そういうものをまだ見たことがなかったので、僕の幼い心はびっくりしたのだ。花火を初めてみたのもこのときだった。お父さんが線香花火を一本くれたので、それで遊んでうっとりと見つめた。

 お父さんがしょっちゅう僕を連れて行く、特別な場所があった。それはなだらかで美しい丘のつらなりの頂上であり、反対側にロンドンがあると思っていたので、僕は“ロンドンの丘”と呼んだ。僕たちは凧を揚げるために“ロンドンの丘”にいった。この経験は、あざやかに思い出せる。丘はいつも、背が高いわらしべのような草でぼうぼうで、風が強かった――凧あげには最適だった。
 僕にとって最高の幸せと喜びのときだった。お父さんは、僕が一人で凧あげができるように教えてくれた。風が強すぎて、僕のもろくて小さな体を吹き上げて雲の中に持っていってしまうのではないかと、恐くなった。一度コツをつかんだら、爽快だった。お父さんといっしょに凧をあげて、風とともに駆けた。あの場所をけっして忘れない。

 小さいときのお気に入りの映画は『The Land Before Time』だった。僕はその映画をいつもアー・マーといっしょに観ていた。リトルフットと名付けられた赤ちゃん恐竜の話で、お母さんをなくして危険な世界を旅しながら、繁栄と平和の大地「グレート・バレー」にたどり着いた。お母さん恐竜が亡くなるシーンで僕が感じた悲しみと、そこにたどり着くまでのすべての困難を乗りこえたあとに僕をおそった、達成感と幸福の感情を覚えている。この映画を何度も見たので、映画のことを考えるだけで感情がよみがえる。これは幼年期のおおきな部分だった。

僕はすでに世界の旅行者だった。両親と両親の友人のパトリックさん、ループさんといっしょに、スペインにいった。そこは、こんなに若くして訪れた四つ目の国だった。優雅なお城のような家に滞在して、僕はそこが僕たちの友人の所有するところだと信じていた。その家には塔があって、僕にはものすごく興味深かった。
両親と友だちはその塔のてっぺんに登ろうと挑戦したが、僕は幼すぎたので下に置いていかれた。とてもがっかりだった。彼らが塔を上っているあいだ、僕は外出して家のまわりのサボテンを見にいった。サボテンもまた、僕の好奇心を刺激したので、軽率にもサボテンにさわろうとした。サボテンのとげが手にびっしりと残ってしまって、お母さんがとってくれるのに時間がかかった。
 スペイン旅行のあとすぐに、ギリシャへの旅行にまた出かけた。砂浜のそばのホテルに泊まった。とても暑いところで、寒いイギリスの気候に慣れていた僕には新鮮な気候だった。
 ギリシャへの旅行は、このあいだにおじいちゃんのジョージ・ロジャーの訃報をお父さんが受取ったので重要だった。彼は、僕の四つの誕生日に87才で自然死した。それは近親者が死んだはじめての経験だった。そして、お父さんが泣くのをみた最初だった。四つの僕は、お父さんが泣くことがあるなんて想像できなかったので、泣くのをみたその日、どれだけお父さんの心が揺さぶられたかを知った。それは僕たち全員にとって深い悲しみの日であり、すぐに僕たちは自宅に帰った。

 お父さんがいつかアメリカに引っ越そうと決心したのは、僕の四つの誕生日のあとの時期だと信じている。彼はちょうどディレクターになったところなので、ロサンゼルスがよりおおくの機会を提供してくれるだろうと信じていた。ロスをまず見てみるために、僕たちはカリフォルニアへの短い旅行をしたけど、僕は楽しい時間だったのを覚えている。四つのときに、僕――エリオット・ロジャーはすでに六つの異なった国にいった。だれがそんなことを宣言できる、えっ? イギリス、フランス、スペイン、ギリシャ、マレーシア、そしてアメリカ。

 お母さんがまた妊娠したのも、この時期のあいだだった。僕に弟か妹ができることになる。両親は子供をもう一人育てると決めていて、この妊娠は予定されていた。おかげで僕はいっしょに育つ弟妹がもてた。やがて、その子は女の子であることが判明した。
 五つの誕生日のまえに、お母さんは赤ちゃんを出産した。その夜を鮮明に覚えている。僕はその夜に体調が悪くて、それは不吉な兆しだった。お母さんとお父さんが病院にいるあいだ、アー・マーおばあちゃんといっしょに家にいて映画をみていた。僕はずっと期待で胸をふくらませていた。そして両親が夜遅くに帰ってきて、包みに入った、ちいさな黒髪の赤ん坊を連れてきた。僕の妹だ。両親は妹をジョージアと名付けた。

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成長後のジョージア

五つの誕生日になにがおきたのか、なにも覚えていない。そのあとすぐに、アメリカへの引っ越しと永住を僕たちは計画していた。そのニュースは僕を興奮させたけど、イングランドでの生活をすてる未来が悲しかった。お父さんは、住宅を見繕うためにアメリカに一人で短期旅行した。あっちにいるお父さんと電話で話したのを覚えている。僕たちが引っ越すのにとてもいい家をみつけたと話してくれた。プールがついてる?と聞いたら、ついてると言った。このニュースは僕をハッピーにした。
 それからその時が来た。古い牧師の家にあったすべてを梱包し始めた。ドーセットハウスの最後の日、お母さんが僕を早退させて連れ帰るためにきたとき、先生が僕たち全員にお菓子をくれた。そこにいた友だちみんなに別れを告げた。それが彼らをみた最後だった。
 古い牧師の家を40万ポンドで買うという注文をお父さんはもらっていた(僕たちはそのとき家を借りていただけだった)。でもお父さんは丁寧にことわった。それは僕たちにとっておいしい投資だったから、その決断をお父さんはやがて後悔することになった。
 古い牧師の家から車で去るときに僕は泣いた。そこでのすべての体験。野原で遊んだり、おもちゃのトラクターに乗ったり、庭にむかってアー・マーおばあちゃんと歩いたり、ブランコに揺られたり。それらすべての体験が遠くなった。僕の新しい生活がはじまるのだ。飛行機に乗りこんで、離陸した。アメリカへ。

(ここまで原テキストの 4/ 141 頁)

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