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古から大湯温泉を見守る鹿倉山薬師神社


いつも見守っていただいている宿の上にある薬師さんについて
正面左隣の由緒の案内板が劣化で見れなくなっている為
こちらに記載させていただきます。

早朝の薬師神社からの大湯の眺め

薬師神社祭
○薬師神社祭神

・薬師瑠璃光如来…
東方浄瑠璃光世界の教主であって十二の大誓願を欲して衆生の病苦を救い、無明の痼疾を癒し、又佛法を敬愛し、善を行い徳を積んで自ら楽しむことを与えた如来である。薬師像は普通薬壷を持っている。

・少名毘古那神…
髙皇産神の子で体は短小で敏捷、忍耐力に富んでいる。この神は天羅摩船に乗り鵝(ひむし)の皮の衣服を着て海の彼方から出雲の御大の岬にやって来て大国主命と共同して国土の経営に任じ、医薬、病気平癒、禁厭などの法を創めたという。温泉、商売繁昌、自由、薬剤などを司る神である。

◎由緒書:
大湯という地名が示すとおり昔から温泉が豊富に湧き続けており、下の湯は文明年間(1469-1487)、すでに共同浴場が建っていたと伝えられている。また、川原の湯は寛永年間(1624-1644)国道ぞいを流れていた大湯川が現在のように川原の湯の方に流れを変えた大洪水のとき土砂が崩壊して発見されたといわれている。
温泉そのものを神よりの恵みとして信仰に結びつけその鎮守の神として少名毘古那神と薬師如耒を神仏習合によって祀っております。
日本人は仏教が伝来する以前から温泉を利用していたと思われます。そして怪我や病気に悩む者がたまたま治った経験から温泉がもつ効果に気付き、なにか神霊の特殊な力を認めそこに神を祀った。民間信仰のたくさんの神々は国家統一と共に神話として整理され医薬の面では大国主命が代表格となり、各地の温泉の神々も大国さま、別名大己貴神をまつるようになった。
もう一人湯治の霊験を保証する神にやはり出雲の神である少名毘古那神、別名恵比寿さまがおります。そしてその後の仏教の広がりによって大国主命を薬師如来の日本における姿であるとし薬師にとって代られた。ここの神社でもやはり少名毘古那神を先に祀っておったのだが仏教の興隆によって薬師如来にとって代られたのだと伝えられております。この事は神仏習合つまり神と仏が一つに融合する本地垂迹説に基づくものです。
大体において十世紀ごろからこのような思想が成立しました。
ところが明治政府は明治元年神道と仏教を分離させる、つまり神社から仏教色を拭い落とした廃仏毀釈運動による神仏判然令を太政官布告で出しております。その後政府は仏教と神道の協力による国民教化政策をとる事にきり替えます。
すなわち仏教をして国家神道に従属させ協力させるのです。
当時土地の人々は如来が位が上で神さまに昇格したのだと申しておりました。そのような事で薬師堂と云っていたのを薬師神社と称するようになりました。
下の湯を「湯ばた」と呼んでおり、薬師様の湯と言う湧壷があって石造りの小さな祠が明治の頃までありましたが、その湯で薬師様が目の病いを治したと言う事が口碑として伝わっております。
又、昔は眼病が多かったので目を洗ったり又胃腸の悪い人が飲んで効果がありご利益のある神様として参拝者が多かったようです。
(680年)飛鳥時代天武天皇が皇后(次の持統天皇女帝)の眼病平療祈願のため奈良薬師寺を創建され我が国が初めて銅の薬師像を作られたのでありますが眼病に関係を持っていたという事はどのような経緯があっての事なのか遥か歴史の彼方に消え去っております。
ここに神様を祀るようになったのはいつの時代かは定かではありませんが鹿倉山頂に鹿角四天士の一人大湯昌俊の本丸跡があるが天正一九年(1591年)九戸戦役の際九戸方に味方したため南部の武将大光寺光愛の攻囲猛攻によって落城したのでこの辺一帯も羅災したといわれておりその十八年後の慶長十三年健立の棟札があった事は奥羽風土記にも誌されているが、近年では明治二十年の下ノ湯大火、昭和十三年の失火に遇っており昭和十四年に再建している。
この度向後の温泉地の発展とこの地の鎮守としてあらゆる人々の幸を祈願して神社を改築する。

昭和六十二年十月十四日竣工
撰文 薬師講中代表 佐々木義隆

大湯の町を見守る黒森山も見えます


10月吉日奉納させていただきました。
次は由緒書を新調します。

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