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#11 40年に及ぶ編纂事業を為す 塙保己一記念館(埼玉県本庄市)

塙保己一(1746-1821)は江戸後期に活躍した全盲の学者。出身である埼玉県本庄市に記念館がある。

塙保己一とは

江戸期の国学者で武蔵国児玉郡保木野村(現・埼玉県本庄市)に生まれる。7歳の時に失明するも、江戸に出て雨富検校の弟子となる。萩原宗固、賀茂真淵等に学んだ。

34歳の時、「世のため、後のため」に失われつつある各種文献を蒐集し、編纂する。以降40余年に亘る編纂は「群書類従」(666冊)として結実。48歳の時、国学研究の場として「和学講談所」を設立し、多くの後進を育てた。

「群書類従」編纂に至るまで

江戸に出て当道座の修行を始めたが、音曲、鍼、按摩といった芸の覚えが悪かったようだ。そのことが辛く、九段下の牛ヶ淵のほとりで自殺を考えるも「成らぬのはせぬからだ」と考え、思い留まった。

また師匠の雨富検校が3年間、学問に打ち込めるよう計らったことから、学問への道が開けたようだ。

当道座での昇進(勾当)を機に「世のため、後のため」との思いを強くし、「群書類従」の編纂が始まるが、成就に向けての徹底度合いに感銘を受けた。保己一はその成就を祈願して、般若心経を1日100編読誦し、100万編読誦をするのだと決意する。

同記念館には「般若心経御巻数帳」が残っており、1979-1821年まで計198万編余りの読誦記録が残されていた。亡くなる直前まで続いたこの読誦記録に、改めて塙保己一の凄みを感じる。

版木出版、和学講談所、蛍蝿抄〜その志は社会にどう作用、伝播したか〜
歴史の蒐集(縦軸)が民衆(横軸)へ拡散し、知的資産へのアクセスが拡大していく点に近世の一つの特徴があるとした場合、蒐集しつつ拡散(出版)されていった塙保己一の「群書類従」は興味深いテーマの一つだろう。

なぜ蒐集しつつ拡散できたのか。

大阪の豪商である草間(鴻池)伊助の影響が大きいようだ。伊助は門人でありつつ、多額の融資を行っており、記念館には鴻池から借りた借用証文が残っている。

また保己一が属していた盲人の自助組織である当道座にもヒントがあるのではないかと思った。当道座は音曲、鍼、按摩だけで成り立つのは厳しく、幕府から高利貸しの権利を認められていた。

保己一自身、寛政の改革では当道座の金貸制度改革に参画していることからも逆に、金融と当道座の距離の近さが窺えよう。保己一の蒐集と出版の両面に当道座がどのような役割を果たしていたのか、調べてみたい。

学者に留まらない活躍

編纂事業から「学者」という印象を頂いていたが、当時の内憂外患の時代情勢に対しても鋭敏な感覚を持っていた一面も窺えた。1789年には水戸藩による「大日本史」の校正に加わっていたし、和学講談所が裏六番町に出来たのも、松平定信の「寛政の改革」を抜きにしては語れない。

蛍蝿抄は保己一が1811年に幕府に献上した外交資料集だが、蒙古襲来に関する資料は、レザノフ来航(1804)、ゴローウニン来訪(1811)の最中で纏められたのだろう。

塙保己一の群書類従版木の保管は、温故学会に引き継がれているが、この設立には渋沢栄一が深く関わっている。渋沢栄一は生地を同うする者として尊敬の念が強かったという。

渋沢栄一が塙保己一について「検校は一面からみると学者であり、知識人であり、また歌人である。しかし、別の面からみると、実業家であり、同時に政治家であった」と語っている。

編纂という切り口を通じ、この国の歴史により深く迫りつつ、広く社会に発信し続けた点が大変印象深い。


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