見出し画像

創業1864年。「社会福祉法人 永寿荘」ができるまで【前編】

こんにちは、副理事長の永嶋です。
これまで、私からお伝えしてきた永寿荘のnote。今回は、初めて理事長の永嶋美喜雄から「永寿荘のそもそも話」を語ってもらいました。今月と来月、2回に分けてお届けします。

江戸時代に創業した荒物屋から呉服屋へ

私は埼玉県上尾市の生まれで、「ご福あげお」の向かいにある事務所の2階が生家です。事務所は明治25年に建てられた建物なんですよ。

私はわかっているだけで永嶋家の8代目に当たります。2代目は文化2年生まれ。その次となる3代目の時代まで永嶋家は農業を営んでいたのだそうです。

商売を始めたのは4代目。元治元年(1864年)に、荒物屋、今でいう雑貨屋を創業したのが始まりでした。

今、ご福あげおがある上尾市平方は、江戸時代には河岸であり、流通の拠点でした。江戸から大きな船が平方までやってきて、ここから小さい船で熊谷のほうまで行き来していたのだそうです。

拠点の周りには店ができます。商売が盛り上がることで、町は栄えます。この地に永嶋家が店を出した当時、平方はどんどん発展していく時期だったのです。

明治に入り、時代の変化に合わせて扱う商品を変えていった永嶋家。明治末期には薬や肥料を扱い始め、大正時代には肥料が主な商材だったそうです。そして、この頃に始めたのが衣料品、つまり呉服の販売でした。

平方は、船着き場として発展した場所です。しかし、明治の終わりごろから江戸、東京に船で運ぶことが減り、船着き場としての平方は廃れていきます。目に見えない程度ではありましたが、少しずつ商売の環境が悪化、周辺の小売店にもじわじわと影響が出始めました。

しかし、そんな中でも永嶋家は商売を継続。戦後は肥料を農協が一手に引き受けるようになったため、永嶋呉服店として呉服が商いのメインになっていきました。地域の皆様に良くしていただき、今でも親しみを持って「しんだなさん」と屋号で呼んでくださる方たちに恵まれてきたのです。

生い立ちから芽生えた「恩返し」への思い

私が生まれ育ったのは、家業が呉服メインになっていった時代です。

生まれたとき、私は健康優良児ではありませんでした。身体のあちこちが悪く、親や周りが一生懸命に世話を焼いてくれたおかげで大人になることができたのです。

子どもの私のためだけに女中さんがつき、至れり尽くせりの対応を受けていました。このあたりで大きく栄えていた川越にいる医師の元まで自転車に乗せてつれていってくれたり、小学校まで迎えに来てくれたりしたものです。

そんな風に育つなかで、「これだけ愛をかけてもらって育ったのだから、その分をいつか返さなければ、恩返しをしなければ」という思いが芽生えていきました。いつか何かの形で、周りの人たちに恩返しできる仕事ができればいいなという思いが、ずっと頭の片隅にあったのです。

勉強会で知った高齢者福祉の必要性

「しんだなさん」と親しまれてきた永嶋呉服店。創業以来ものを売る商売を続けてきた私たちが社会福祉法人の立ち上げに至ったきっかけは、私が積極的に参加していた勉強会でした。

市役所で行われた福祉関係の勉強会や県による社会福祉法人の説明会に参加しているうちに、「これからは高齢者がどんどん増えていく時代だ。高齢者や福祉の分野で何か力を発揮できれば」と思うようになったのです。

立ち上げからしばらくは、呉服屋の商売も並行して続けてきました。社会福祉法人一本にしぼったのは、今からおよそ15年前のことです。両方続けていくことは現実的に困難で、どちらかに事業をしぼる必要がありました。時代の変化を見ていても、物販業は今後ますます難しさを増すでしょう。そこで、社会福祉法人に力を注ぐことを決めたのです。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?