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見応えのある社会派ヒューマンドラマ 『あんのこと』

あんのこと
6月7日(金)公開 全国ロードショー

■あらすじ

 覚醒剤取締法違反で逮捕された香川杏。子供の頃から実母による暴力と搾取を受け、中学生の年から売春で稼いだ金を家に入れることを強要されている。覚醒剤も客に打たれてはじめた。腕には無数のリストカットの跡。まだ21歳だが、生きる意欲を失った老人のような目をしている。

 担当刑事になった多々羅に誘われ、彼が主宰する薬物依存症の自助グループにつながった杏は、そこで少しずつ心を開いていく。多々羅は杏が行政の福祉につながる手助けをしてくれた。杏は薬をやめて、介護施設で働き始める。家を出て女性向けシェルターで一人暮らしをはじめる。夜間中学にも通い始めた。

 孤立していた杏の周囲に、少しずつ人の輪ができはじめる。多々羅の支援は大きい。多々羅の支援団体を取材している雑誌記者の桐野も、杏を気にかけて世話を焼いてくれる。働いている施設の責任者も、杏の心強い味方だ。

 だがそんな杏の生活は、あっと言う間に崩壊してしまう。

■感想・レビュー

 実際の事件をモチーフにした映画だというが、それがどんな事件かはわからない。それで構わないと思う。実話をもとにしているとしても、この映画の香川杏は映画のために作られたキャラクターだろうし、周辺人物なども同様だろう。映画は香川杏という女性の姿を通して、令和という今この時の日本の現実を描いている。

 この映画で観客の「今この時」に肉薄してくるのは、映画の終盤で主人公が見上げる空に、ブルーインパルスが編隊飛行が見えるシーンだ。これは新型コロナと闘う医療従事者への感謝のしるしとして、2020年5月29日に飛行したものだ。

 映画の中で杏が生きていた時代は「なんとなくコロナ前からコロナ禍」と理解しながら観ているわけだが、このブルーインパルスが飛んだシーンで、映画の中の時間、香川杏の生きている時間が、我々が知る「あの時」と結びつく。映画の中で一番ドキリとしたのはこの場面だった。もちろん作り手もそれを狙っているのだろうけれど。

 悲劇というのは、出口をきちんと塞ぐことで成立する。主人公が悲劇的な運命をたどる際、「こうすれば避けられた」「こうすれば逃げられた」という抜け道があるのに無視されてしまうと、観客は白けてしまうのだ。その点この映画は、出口をかなり丁寧に塞いでいると思う。どん詰まり状況にいた主人公に逃げ道を用意して、そこで新たに生きはじめたとき、片っ端から出口を塞いで窒息させてしまうサディスティックな手腕には感心する。悲劇はこうでなくちゃ。

 この映画に悲劇としての弱さがあるとすれば、それは稲垣吾郎の存在だと思う。映画では工夫して杏が彼を頼れない状況を作っているわけだが、それでも映画を観ている僕には、彼がまだどこかで辛うじて、まだ頼りがいのある誠実な大人に見えてしまうような気がするのだ。

 これはもう少し別のキャスティングもあり得たような気がするのだが、そうすると佐藤二朗が生きてこないしなぁ。

丸の内TOEI 2にて 
配給:キノフィルムズ 
2023年|1時間53分|日本|カラー 
公式HP:https://annokoto.jp/
IMDb:https://www.imdb.com/title/tt32046045/


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