私の城

潰れてしまったお店がある。

これは東日本大震災の前の話。近所にショッピングセンターがあった。私の生まれる前からあって、そこそこ大きなビルの中に何個かテナントがあってそこそこ繁盛していた。今現在調べてみるとこのビルに関してちゃんとウィキペディアがあって驚いている。と云う事はやっぱりそこそこ繁盛していたのだ。
小さい頃からこのビルに足しげく通っていて、東日本大震災で倒壊の恐れありと更地にされるまでを見届けた私には思い出が多すぎる場所である。

一階に入っていたスーパーで働いている母の仕事が終わるまで、色々な所をうろついていた。スーパーの本・雑誌売り場で、「女の子だから」という理由で買ってもらえなかったジャンプを立ち読みしていた。
ジャンプを読み終わると、お花屋さんに向かう。そこの店員のお姉さんとはすっかり顔なじみで、店先で売っている小さなガラス瓶に入ったグッピーを行く度見せてもらっていた。クリスマスには手を叩くと反応して笑うサンタの飾りを出してくれて、何度も手を叩いて動かしてくれた。
お花屋さんは私が十歳にならないうちになくなってしまった。でも何処かでグッピーを見ると、記憶の遠くの方にあってすっかりぼやけてしまったお姉さんの姿を思い出す。

一階には他に洋品店とか玩具屋さんとか、金港堂なども入っていた。2010年まではキャンドゥもあった。
私にはロッテリアが思い出深かった。両親が余り外出しないタチだったので、私が触れるファーストフードの味といえばロッテリアだった。
そしてロッテリアの横にはムシキングがあった。ジャンプも読ませるのも拒否した母だったが、一月に一回くらいだったらムシキングをやってもいいと言ってくれる時があった。ちなみにラブ&ベリーは制限が無かった。
今でも思い出すのは、百円を握り締めてゲームボタンをぽちぽちしていたら、後ろから急に年上の男の子が「次はパーだよ」と声をかけてきたのだ。
早くやりたいのかな、と思いつつその言葉通りにしたらパーが出た。「次もパーだよ」「次はチョキだよ」とその子の言う通りにしていったら全勝し、私は興奮気味にお礼を言ってバイバイしてロッテリアで待つ母の元へ報告しに行ったのだった。
高校生ぐらいになって友達に聞いたのだが、ムシキングってどっかで次の手のヒントを表示してくれていたらしい。全然気付いていなかった。つまりそのお兄さんは全然ヒントに気付いていない子がいるぞ、と助けてくれたわけである。あの人絶対良い人になってる。

このロッテリアも震災前にはなくなっていた。近くに他にスーパーが出来たり、新しく道路が開通したりしてビル自体の客足が減ったからだ。
その痕を丸まんま利用して謎のカレー屋が開店したが、ガチのスパイシーカレーだったので避けて通っていた。本当に謎のカレー屋で、店員の日本語がかなり怪しくて、一回潰れてまた開店したりしていた。

二階部分には一時期ゲーセンがあったり、電気屋さんがあったり、雑貨屋さんがあったり、あまり記憶が定かじゃない。玩具屋コーナーででっかいたまごっちが置いてあったのは覚えている。
私がよく入り浸っていたのはここのリサイクルショップだった。
置いてあるジャンルがよくわからないゾーンには井戸の手押しポンプとか熊のはく製(偽物)とかでっかいフランス人形とか、アフリカの呪術で使ってそうな仮面とか胡散臭いものがごろごろ並んでいた。滅茶苦茶に積んであるそれをくぐりぬけて、新しく入ったものを見つけるのが好きだった。
見せの一番奥にあった古本コーナーでは、よく母が「これはお母さんがよく読んでた少女漫画でね」「この漫画家さん懐かしい」と珍しく入り浸った。

地下もあった。
私はこの地下にあるヤマハの音楽&英語教室に通っていて、ぜーんぜんやる気がなかったのだが友達が五人も出来た。その内の一人とは今現在も交流が続いている。
思えば私が一番好きだったのはこの地下フロアで、いつも誰かしらが囲碁をやってる囲碁教室があった。入った事はなかったが、ヒカルの碁のポスターが印象的だった。
整体と整骨院があった。二つとも現在は近場で開業している。
それから馴染みの美容院があった。どちらかというと大人向けの美容院だったが、母が常連だったからお店の人達はこころよく接してくれた。よつばと!や地獄少女の漫画が揃えてあって、ホラー漫画の良さに目覚めたのはこの美容院のおかげだった。
震災後はすぐ近くに移設したが、更に移転して通えなくなった。優しくしてくれた美容師さん達も辞めてしまっている。

ジョイフル。ジョイフルである。私はすっっごいジョイフルが好きだ。
家族で食事する所といえばジョイフルだった。母はいつも一緒に一階のロッテリアには行ってくれたが、父は来てくれなかった。祖母はファーストフードが嫌いで、ファミレスならまぁいいでしょうと父も引っ張って来ていた。だから家族でご飯を食べるならジョイフル。
私一人では食べきれないから、メインを祖母と半分こして、セットでついてくるパンを食べていた。絶対に締めはチーズケーキだった。苺のソースに大きな果肉が入ってると嬉しくて母にあげた。
そして会計時にレジ横にあるちっさい箱に入ってるガムを買ってもらって、帰りに膨らましながら車の外を眺めていた。
ジョイフルは震災前にビルから撤退している。私はがらんとした跡を見るだけで、心にぽっかりと空いた穴を感じずにはいられなかった。あんなに美味しいくせにジョイフルは県内に全然なかった。
高校生になってから、高校がある所から三キロ先にジョイフルがあると知って「だってジョイフルだぜ!!!!!行くっきゃねぇよ!!!!!!」と絶叫しながら「別にジョイフルに思い出ないよ……」と言う友達を連れて辿り着いた時の感動ったらなかった。
今でも時々行く。

それから、そう、私がこの日記みたいなのを書こうと思ったのは、この地下にあった喫茶店にもう一度行きたいなぁとずっと考えていたからだ。
基本的に食事はジョイフルとロッテリアで済ますから、その喫茶店には母が休憩したくなったりとか、ちょっと時間を持て余した時とかしか連れて行ってもらえなかったが、それでも結構な頻度で入店していた。
ここもまた大人向けのお店でサラリーマンのおじさんとか、囲碁教室のおじさん軍団とかがたくさんいて、子供はあまりいなかった印象がある。
ただ私の記憶ではブラック・ジャックが全巻揃っていて、私は一巻ずつ読んでいた。何か私の記憶、漫画を中心に回ってんな。
子供の私は炭酸水と、チーズトーストを毎回頼んでいた。ジョイフルのチーズケーキを再び摂取できる場所を知ってしまった今、私はこのチーズトーストが食べたくて仕方が無くなっている。自分で作って食えや、という話だがそんなのはやだ私はそこのチーズトーストが食べたいんだ。(駄々こね)

件の喫茶店は震災後情報が一切ない為、多分もう何処でもやってないしあの空間は何処にも再現される事はない。店員さんだったよ、という方はツイッタ―で見かけた。それでも私は半年に一回ぐらい希望を持って店名を検索にかけてしまうのだ。もう私が作ってやろうか、店を。起業してやろうか。

ショッピングセンターそのものはビル自体の劣化に伴いスーパーが移転してからは、本当にもう過っ疎過疎になってしまった。ジョイフルの撤退もその為である。二階なぞは何もない空間があったりした。そのうちテナントがどんどんなくなり、謎のカレー屋が開いたり無くなったり復活してる間に震災が起き、立ち入り禁止となって何年か放置された後更地となった。

あんなにたくさんの事が起きたのに解体されるのは早かった。

今その土地にはでっかいパチンコ屋ができ、併設してコンビニとうどん屋と百均が出来た。もっと近所に喫茶店も出来た。

でもグッピーとか、押入れの奥野ムシキングのカードとか、炭酸水を見ると楽しかったなぁと私のいた城を思い出すのである。


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