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『グラン・プリ』 マックィーンのレース映画企画に競り勝った、フランケンハイマーが私財を投じて挑んだF1レースの世界! 町山智浩単行本未収録傑作選22

文:町山智浩
初出:『映画秘宝』2014年7月号

●マシンとスピードが大好きなフランケンハイマー夢の企画

 真っ暗なスクリーンに「ジョン・フランケンハイマー・フィルム」のクレジット。カメラがズームバックしていく。エンジンが唸る。それはレースカーのエキゾーストパイプの出口だ。排気が観客に吹き付けられる。これが映画『グラン・プリ』(1966年)のメイン・クレジットだ。
 1966年、F1モナコGPのスタート直前。タイヤ、12気筒エンジンのキャブレター、ギヤのロッド、タコメーターなどが望遠レンズで超クロースアップになり、4分割、6分割、12分割のスプリットスクリーンに増殖する。フェルナンド・レジェが様々な機械のクロースアップにダンスを踊らせた前衛映画『バレエ・メカニック』(1924年)のようだ。このタイトルをデザインしたのは『サイコ』『黄金の腕』のタイトル・デザイナー、ソウル・バス。事前の綿密なスケッチに従って、実際のモナコGPで撮影された。
『グラン・プリ』はフランケンハイマー監督の夢だった。フランケンハイマーは子どものころから人一倍体が大きく、スポーツが得意でケンカっ早く、マシンとスピードが大好きだった。陸軍高校を出て、空軍に入ったフランケンハイマーは航空撮影隊で映画を勉強し、TVのニュース・カメラマンを経て映画監督になった。
 フランケンハイマーは当時のハリウッド映画のカー・チェイス・シーンに不満だった。俳優がスクリーンの前に固定された車で運転するふりをするのが普通だったからだ。スタントマンが車を走らせる映像も、フィルムのコマを飛ばして早く見えるようにしていた。
「本物のレーサーが走る映画が撮りたい。それも世界最速のF1で」
 しかし、アメリカではインディなどのストックカー(市販車)レースに比べるとF1は知名度が低かった。ところが自分もレーサーである俳優スティーヴ・マックィーンが自らの出資で、ニュルブルクリンクGPの映画を撮ると言い出した。監督は『荒野の7人』でマックィーンと組んだジョン・スタージェス。フランケンハイマーはこの監督の座を横取りしようと、先に現地に飛んで自費で何時間ものレース映像を撮影し、マックィーンに見せた。車載カメラで撮影したスピード感あふれるフィルムをマックィーンは気に入って、監督をフランケンハイマーに決めた。
 残念なことにマックィーンはフランケンハイマーの片腕だったプロデューサー、エドワード・ルイスと打合せ中にケンカして降りてしまった。フランケンハイマーはあきらめず、なんとかMGMに製作を承知させた。
 さらにフランケンハイマーはF1からの全面協力も得た。交渉が簡単だったのは、当時のF1は現在ほど規模が大きくなかったからだ。たとえば車体には企業のステッカーはひとつも貼られていない。だが、この66年からF1は排気量を1500c.c.から倍の3000c.c.に増やし、ビジネスとしても大きく変わりつつあった。フランケンハイマーたちは260人もの撮影隊を連れて66年の世界選手権に同行し、世界6カ国で実際のレースを撮影し、ドラマとミックスさせることになった。
 各車、スタートラインにつく。『グラン・プリ』の主役4人がアナウンサーに紹介される。英国の老舗チームBRM(ブリティッシュ・レーシング・モーターズ)の選手は2人。アメリカ人のピート(ジェームズ・ガーナー)と英国貴族のスコット(ブライアン・ベッドフォード)。マックィーンの代わりにキャスティングされたガーナーは実際にレーシング・カーを運転できるよう特訓を受けた。撮影でガーナーが乗ったのはF1の車体に排気量の小さいF3のエンジンだったが、最終的にはプロ並みの腕に上達したという。
 ライバルはイタリアのフェラーリ・チーム。ベテランのジャン=ピエール・サルティを演じるイヴ・モンタンも実際に運転している。相棒は若く陽気なイタリア人のニーノ(アントニオ・サバト)。
 5人目に紹介されるティム・ランドルフは新参のヤムラ・チームのドライバー。ヤムラはF1に参加したばかりのホンダがモデルで、ランドルフを演じるフィル・ヒルは本物のF1チャンピオン。『グラン・プリ』で彼は、ル・マン24時間レース用のフォードGT40にカメラを載せてコースを走り、時速200キロ以上の主観ショットを撮影した。
「観客をF1のコクピットに乗せたい」と言うフランケンハイマーは『グラン・プリ』をシネラマ作品にした。シネラマはシネマとパノラマの合成語で、横25メートルの巨大スクリーンを使う。当初は遊園地のアトラクションや見世物と同じで、第1作『これがシネラマだ』(1952年)にはストーリーはなく、グランドキャニオンの空撮やジェットコースターの主観映像を見せるだけだった。観客の視界のすべてをカバーするシネラマはフランケンハマーの狙いにぴったりだった。実際のレースを記録するため、できるだけ多くのカメラを同時に回すので、世界中に存在するすべてのシネラマ用65㎜パナヴィジョン・カメラが集められたという。
 突然、静寂が訪れ、時間の流れが遅くなる。レーサーの心臓の鼓動が大きく、早くなる。スタートのカウントダウンと重なる。白煙を上げてタイヤをスピンさせて飛び出す。モナコGPの模様に、主人公たちのインタビュー音声が重ねられる。
 モナコGPは高級リゾート地モンテカルロの公道で行われる。コースは複雑で狭く、コーナーはきつく、スピードも最高時速と最低で200キロ以上の差がある。
「モナコでは完走するまで2400回ものシフト・チェンジが必要だ」
 クラッチを踏む左足とシフトレバーを握る左手をせわしなく動かしながらピートが言う。実際にジェームズ・ガーナーがコースを走るのを撮影しているので、シフトの動きは事実どおりだという。
「危険かって? もちろん」
 サルティが答える。
「だが、時速240キロで木に衝突したらどうなるか、そんなこと本気で想像したらレースなんかできない。命を賭けるには想像力の欠如が必要なんだ」
 ニーノは言う。
「F1レースってのは棺桶に乗るみたいなもんだ。ガソリン満載の。まるで走る爆弾だよ」
 その言葉は、76年のF1選手権におけるジェームズ・ハントとニキ・ラウダの死闘を描いたロン・ハワード監督『ラッシュ/友情とプライド』(2013年)で引用されている。それ以外にも、『ラッシュ』は多くの場面で『グラン・プリ』を下敷きにしている。
 ピートのギヤが入らなくなる。同じBRMのスコットの進路を塞いでしまう。モナコは道幅が狭く、追い抜くのは難しい。ピットでブルーフラッグが振られる。「道を譲れ」の指示だ。そのチャンスもなく、ピートのマシンはギヤが噛んで急減速して真後ろのスコットと接触。ピートは港に飛び込み、スコットは岸壁に叩きつけられる。この撮影では人形を載せたマシンを水圧で発射して撮影された。
 驚くのは当時のF1の安全性の低さだ。ボディは葉巻型で、接地力を強めるウィングやスタビライザーもない。タイヤは細く、グリップ力は低い。ちょっとしたことで地面から浮かび上がる。シートベルトなどない。座席もバケットでなく、首や頭をホールドしてない。ロールバーは細く小さくちゃちで、ヘルメットは顔がむき出しだ。
 この事故でピートはBRMをクビになり、かつて所属したフェラーリに戻ろうとして「うちは評判が大事なんだ」と断られる。フェラーリはこの映画に全面協力して工場まで撮影させているが、マシン・トラブルのシーンがやたらと多いのによくOKしたものだ。
 ピートは本田宗一郎をモデルにしたヤムラ(三船敏郎)に拾われる。瀕死の重傷を負ったスコットは奇跡的にレースに復帰するが、痛み止めの副作用に苦しめられる。若いニーノは悩みもなくスピードとセックスに身を任せる。
 得点数トップを走る王者サルティはアメリカの雑誌記者ルイーズ(エヴァ・マリー・セイント)の取材を受ける。
「私はかつて事故を目撃して引退したくなったことがある。克服するのは大変だった。何か恐ろしいことがあったら、アクセルを踏み込むことだ」
「恐ろしい勝ち方ね」
「勝ち方はどうでもいい。勝つだけさ」
 しかしサルティがルイーズを愛するにつれ、死の恐怖が蘇ってくる。ベルギーのスパ・フランコルシャン・サーキットの前のレーサー会議で、サルティは雨が降るから中止にしようと主張する。

●世界最速だった男たちのヴァルハラ(英霊の丘)

「このコースは一部が森の中にあり、そこで雨雲が発生する。レーサーは雨の壁に突っ込むことになる」
『ラッシュ/友情とプライド』にも、1976年、ドイツのニュルブルクリンクでのレースで雨が降り、レーサーたちの会議で、ニキ・ラウダが危険だから中止すべきだと主張するシーンがある。事実とはいえ、『グラン・プリ』にそっくりだ。
 彼らはレース実施を選んだ。実際に66年のベルギーGPでは雨天で事故車が続出した。それを撮影した後、フランケンハイマーはそれに合わせて、事前の会議のシーンを撮り足したのだ。これは限りなくドキュメンタリーに近い映画なのだ。
『ラッシュ』でもニキ・ラウダの反対を押し切ってレースが実施され、ラウダはクラッシュ、炎上して全身に火傷を負う。『グラン・プリ』でもサルティはクラッシュして、コース内に出た子ども2人をはね殺してしまう。サルティの精神は限界まで追い詰められる。
「燃えるマシンに群がる野次馬やカメラマンたちの顔を見たか?」
 あいつらが見たいのは事故なのだ。
「あなたたちは、命を賭けられない普通の人たちの生贄なのよ」
 そう言うルイーズはサルティへの愛と彼を失う恐怖の間で引き裂かれる。
 スコットの妻も、夫が死ぬ寸前の事故にあうと、これ以上心配するのが耐えられずに逃げ出してしまう。ピートは彼女を「ひどい女だ」と責めるが、うっかり関係してしまう。自分が殺しかけた親友の妻と! スコットは妻の行動が理解できずに言う。「車ならフードを開けて、悪い部品を取り換えればいいが、人間はそうもいかない」
 この妻を演じるジェシカ・ウォルターは後にクリント・イーストウッドの監督第1作『恐怖のメロディ』でイーストウッドを追い詰めるストーカーを演じることになる。
 ニーノは女遊びをやめない。ヤムラ・チームの日本女性2人を抱えて部屋にしけこむ。「2人一緒に?」と聞かれて答える。
「すごく小さいから大丈夫さ」
 そういう問題か? そんなニーノに愛想をつかす恋人を演じるのはフランスの歌手フランソワーズ・アルディ。この後「もう森へなんか行かない」(1967年)、「さよならを教えて」(1968年)が大ヒットになる。
 4人の勝ち点は拮抗したまま、イタリア、モッツァで最終戦を迎える。このレースを征した者がチャンピオンになる。モッツァはアメリカのインディ500のような楕円形のバンク・コースとして作られた。バンクは路面が傷みやすいのと、車体に過剰なGがかかるうえに、高速になるので危険ということで、66年当時、すでに使われなくなっていたが、映画ではここがクライマックスになる。
 スタートでサルティのフェラーリはエンストし、大きく出遅れる。それを取り戻すために彼は鬼神のごとき追い上げを見せる。しかし、先行車のエキゾーストパイプが外れて転がって来た。それを踏んだサルティはバンクを飛び出した。
 血みどろでタンカに乗せられたサルティにルイーズがすがりつく。しかし救急車が乗せてくれたのは、彼の疎遠になった妻だけだった。取り残されたルイーズは手についた血を群がる野次馬とマスコミに見せつけて叫ぶ。
「これがほしかったんでしょ!」
 フェラーリ・チームはニーノに黒旗を振った。死んだサルティを悼んで棄権したのだ。そのおかげでピートとスコットがその年の優勝と準優勝に輝く。表彰台の上で、2人はサルティの死を知る。これは1961年にフィル・ヒルが優勝した時と似ている。彼は同じイタリアGPで初勝利して年間優勝を決めたが、それは彼と得点数で競っていたフォン・トリップスがゴール直前に観客席に突っ込んで観客14人と共に命を落としたからだった。ヒルは表彰台でライバルの死を知らされ、涙にむせたという。
 レース・シーンのすべてが本物の『グラン・プリ』の弱点は、ピートという主役の弱さだ。「死に近づくと生きてる実感がつかめる」と言うが、茫洋としたジェームズ・ガーナーは崖っぷちを求める男の狂気を感じさせない。当初の予定通りスティーヴ・マックィーンが演じていたら、本当に傑作になっていただろう。だが、映画公開後、ガーナーと会ったマックィーンは「なかなかいい映画だったよ」と彼を讃えたという。
 その後、マックィーンは『ブリット』(1968年)を製作し、自らハンドルを握って時速100キロを超えるカー・チェイスを撮影した。監督のピーター・イエーツは『グラン・プリ』を大いに参考にした、と明かしている。さらに71年、マックィーンはル・マン24時間レースを撮影した『栄光のル・マン』を自分の会社で製作している。『グラン・プリ』からさらに余計なドラマやセリフを殺ぎ落とした、ドキュメンタリーぎりぎりの映画だった。
 1998年、68歳のフランケンハイマーは『RONIN』で再びカー・チェイスに挑戦した。やはりF1レーサーを使って、今度はパリの狭い街中を時速100キロ以上で走らせた。『RONIN』のメイキング・フィルムを見ると、年を取ってもガタイのいいフランケンハイマーが大声でスタッフを煽りまくり、疾走する撮影車に乗り込んでいる。血管をガソリンが流れているような、アクション映画のために生まれてきた監督だった。
 だが、この『グラン・プリ』でレース・シーン以上に価値があるのは、ベルギーGP前の会議のシーンである。そこに集まっているのは本物のレーサーたちだ。イヴ・モンタンの隣でネクタイを締めているのはロレンツォ・バンディーニ(伊)。『グラン・プリ』公開の半年後、67年5月のモナコGPで、映画で事故が起こったのと同じ場所でクラッシュして死亡した。その隣はリッチー・ギンサー(米)。彼は65年のメキシコGPでF1に参加したばかりのホンダに初優勝をもたらした。その隣はフィル・ヒル(米)。彼らの後ろにいるマイク・スペンス(英)は68年にインディ500で事故死。その隣は『グラン・プリ』の技術顧問を担当したボブ・ボンデュラント(米)。部屋の向かい側、右端の英国貴族っぽい細い口髭の紳士はグラハム・ヒル(英)、1975年に自家用飛行機事故で死亡。隣のヨッヘン・リント(独)も1970年にイタリアGPで事故死。まだ28歳だった。そしてダン・ガーニー(米)、ジョー・シュレッサー(仏)は1968年、ドイツGPで事故死。そして後ろにギ・リジェ(仏)と御大ブルース・マクラーレン(英)。ここには映っていないジム・クラークも1968年にF2レースで事故死した。戦慄すべき死亡率である。その何でもない会議シーンは、世界最速だった男たちのヴァルハラ(英霊の丘)なのだ。


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