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映画館ストレンジャーにて「ぶっ放せ!ドン・シーゲル セレクション」開催。ドン・シーゲルとS&W M 27リボルバー『殺人者たち』『刑事マティガン』

文:町山智浩
初出:『映画秘宝』2013年9月号
町山智浩著『狼たちは天使の匂い』収録

 映画に初めてマグナムが登場したのはドン・シーゲル監督の『殺人者たち』(64年)ではないか。主人公リー・マーヴィンはS&WのM27リボルバー(357マグナム)に巨大なサイレンサーをつけて使う。体が大きいマーヴィンのために大型の銃が使われたのだろうが、これは映画の嘘だ。リボルバーはシリンダーと銃身の間に隙間があるので、サイレンサーで音は消せない。
『殺人者たち』がテレビで放送されたとき、マーヴィンの声を吹替えたのは、『ルパン三世』(71年)の次元大介で知られる小林清志だった。この映画のマーヴィンと次元は、細身のスーツに細身のネクタイを締め、S&Wの357マグナムを愛用している。そのせいで、2人の顔はまったく似ていないのに、印象がダブって記憶されている。
『殺人者たち』の原題はEmest Hemingway’s The Killers(アーネスト・ヘミングウェイの『殺し屋たち』)という。『殺し屋たち』は、こんな短編小説だ。
 ——田舎町のダイナーに2人の男が入ってきて、カウンターに座った。外は暗くなり始めて、街灯がついたところだった。
 2人は殺し屋で、この町に住むオール・アンダーソンという元ボクサーを殺しに来たのだ。
 そのダイナーには、たまたまニック・アダムスという青年がいた。彼はヘミングウェイの分身である。ニックはアンダーソンを知っていたので、彼のアパートに駆け込んで、殺し屋が来ていることを知らせる。
「警察を呼ぼうか?」
「いや、それはよくない」
「何かできることはない?」
「何もない」
「逃げたら?」
「いや。ずっと逃げてきて疲れた」
 アンダーソンは殺されるというのに、怯えるでもなく、ただベッドに寝転んで壁を見つめている。
 アダムスは店に戻って、マスターのジョージに相談すると、「彼は誰かを裏切ったんだろう」と言われる。
『殺し屋たち』は、それで終わってしまう。なぜ、アンダーソンが狙われているのか。なぜ、彼は逃げようとしないのか。ヘミングウェイは何も説明しない。
 1927年当時、シカゴはアル・カポネが支配し、邪魔者を次々に葬り去っていた。アンダーソンというプロボクサーも殺された。八百長の金を受け取ったのに、試合でわざと負けなかったからだと言われる。クエンティン・タランティーノの『パルプ・フィクション』(92年)のブルース・ウィリスもそうだ。
『殺し屋たち』を書いたヘミングウェイは当時28歳だったが、その前に第一次大戦に参加して戦場の地獄を体験している。生きる気力を失ったアンダーソンは、戦争後遺症の若者たちを象徴しているといわれる。
 書かれて100年近く、『殺し屋たち』は読者の想像力をかきたて続けてきた。なぜ、彼は逃げなかったのか?
 1946年、ユニヴァーサル映画が『殺し屋たち』を映画化した。邦題は『殺人者』。冒頭はセリフのひとつひとつまで原作に忠実で、殺し屋が標的を射殺してから、保険調査員が、撃たれた男の過去を探っていく物語になっている。脚本はジョン・ヒューストンが書いて、自分で監督しようとしたが、プロデューサーとケンカしたため、フィルムノワールの職人ロバート・シオドマクが監督し、ヒューストンはクレジットも外されたと言われる。
 殺された男は、これがデビュー作になるバート・ランカスター。彼は悪女エヴァ・ガードナーの色香に迷って悪に手を染め、裏切られる。ファム・ファタールに恋した男の転落という典型的フィルムノワールだ。
 それから16年後、ユニヴァーサルはテレビ放映のために『殺人者』をリメイクした。それがリー・マーヴィン主演、ドン・シーゲル監督の『殺人者たち』dだ。
 今回はタイトル通り、殺し屋たちが主人公。2人とも細身のスーツにサングラス。白髪混じりのベテランがチャーリー(リー・マーヴィン)、20代後半でニヤニヤ笑いを絶やさないのがリー(クルー・ギャラガー)。このコンビはクエンティン・タランティーノ監督『パルプ・フィクション』の殺し屋コンビ(サミュエル・L・ジャクソンとジョン・トラヴォルタ)の原型になった。
「原作と同じ部分は、殺し屋が2人で、殺される男が逃げない、ということ以外に何もない」と監督が言うほど『殺人者たち』はオリジナルな映画になっている。まず、殺し屋たちは最初に盲学校に現れる。受付の女性も盲目だが、チャーリーとリーは平気で彼女をいたぶる。
「ジョニーの居場所を言え」
 ダイナーを盲学校に変更したことで、殺し屋たちが血も涙もない人でなしなのが観客にすぐわかるようになっている。
 2人は教室に入り、教師をしていたジョニー(ジョン・カサヴェテス)に銃を向ける。しかしジョニーは逃げようともせずに覚悟して弾丸を受けて死ぬ。このシーンではカサヴェテスに弾着が仕掛けられていないので、血は一滴も出ない。ヘイズ・コート撤廃前だし、もともとテレビ用だからだ。
「ジョニーはなぜ、逃げようとしなかったのか?」
 仕事が終わった後も、チャーリーはどうしても腑に落ちない。
「簡単な仕事だったからいいじゃないか」リーは気にしてない。
「簡単な仕事のわりに報酬が不自然に高すぎる」チャーリーは怪しむ。
「俺たちは依頼人を知らないが、いったい何者なんだ?」
 チャーリーは、ジョニーには100万ドル強奪犯だという噂がある、という。
「俺のように白髪になると、引退を考えるんだ。若いお前と違って」
 そう言われたリーはずっと握力鍛錬グリップを握っている。腕立て伏せする場面もある。いつも髪の毛をおしゃれに決め、人を撃つ前にキザに髪の毛を整えたりもする。しかも殺しが楽しくてしょうがないらしく、いつもはしゃいでふざけている。リーは『殺しのテクニック』(66年)のフランコ・ネロや『メカニック』(72年)のジャン・マイケル・ヴィンセント、『北国の帝王』(73年)のキース・キャラディンと同じく、60年代の新世代、つまりロックンロールやヒッピーを象徴する、大人の目から見た「軽薄な若者」である。ドン・シーゲル監督にとっては『ダーティハリー』(72年)の殺人鬼スコルピオへとつながっていく。
 その100万ドルの行方を求めて、チャーリーとリーはマイアミ、ルイジアナ、そしてロサンジェルスと、聞き込みをして回る。この映画では、殺し屋が探偵役なのだ。その過程で、ジョニーは元カー・レーサーだったが、シーラ(アンジー・ディッキンソン)という女に惚れて道を踏み外したことがわかってくる。
 シーラは実はジャック・ブラウニング(ロナルド・レーガン)というギャングのボスの情婦だった。ジャックは現金輸送車の強奪を企んでいた。そのために優秀なドライバーが必要なので、シーラをジョニーに近づけたのだ。
 ジャックはかつてB級西部劇俳優だったロナルド・レーガンが演じている。かつてギャングだったジャックが現在は実業家として成功しているという設定は、その後、レーガンが大統領になるのを予言しているようで面白い。また、レーガンはハリウッド俳優協会の会長だったころ、赤狩りに密かに協力していた。実際にハリウッドの裏切り者でもあったのだ。
 現金輸送車を襲った後、ジョニーはジャックを車から落として、100万ドルを独り占めして、シーラと2人で逃げようとしたという。では、シーラに直接聞くしかない。
 チャーリーはそこまでして100万ドルがほしいのか? いや、彼はこうつぶやく。
「金のためじゃない」
 では何のためか?
 チャーリーとリーは、ついにシーラの部屋を訪ねる。彼女は100万ドルはジョニーが持って行ったと言う。リーはすくっと立ち上がり、手持ちカメラがその動きについていく。彼はいきなりシーラの顔をぶん殴る! このショットは1964年の映画としては狂気に満ちている。リーは明らかにサディストだ。さらに2人はシーラを窓から投げ捨てようとする。NBCテレビは『殺人者たち』を見て「暴力的すぎる」と放映を拒否した。おそらく、この拷問シーンのせいだろう。ユニヴァーサルは劇場で公開した。
 シーラは観念して真相を語る。ジョニーが100万ドルを持ってシーラに会いに行くと、そこには拳銃を構えたジャックがいた。
「早く撃って」
 シーラはジョニーから目をそむけてジャックに言った。弾丸は急所を外れてジョニーは逃げ延びたが、ジャックは証人を始末するため、ジョニーを探し続けた。
「そして俺たちが雇われたのか……」チャーリーは言う。「謎は解けた。ジョニーが死を恐れなかったのは、既に死んでいたからだ。シーラ、あんたが彼を殺したんだ」
 テレビで放映されたとき、シーラの吹替えは『ルパン三世』で最初に峰不二子を演じた二階堂有希子だった。だからシーラとチャーリーのやりとりは、何度も何度もルパンを騙し続ける峰不二子と、「お前は信用できねえ女だ」と不二子を嫌う次元大介のそれに見えてくるのだ。
 シーラは今、ジャックと結婚しているという。では100万ドルはやはり2人が持っている。チャーリーたちはシーラをジャックの家に案内させようと路上に出たところで狙撃される。シーラは逃げ、リーは射殺された。
 チャーリーも腹部に被弾するが、血を流しながらジャックの家にたどり着く。床に倒れたまま、マグナムでジャックを射殺。このシーンでは超広角レンズを使って遠近感を誇張して、マグナムを実際よりも巨大で恐ろしく見せている。このテクニックを、ドン・シーゲルは後の『ダーティハリー』で最大限に利用することになる。
「全部、ジャックにやらされたの……どうしようもなかったの」
 ジャックに責任を押し付けて命乞いするシーラ。すべてはこの女のせいだったんだ。チャーリーは軽蔑をこめて、シーラにもマグナム弾を撃ち込む。最後の力を振り絞って100万ドルをスーツケースに入れて歩き始めたチャーリーの命はそこで尽きた。
 チャーリーは自分が殺したジョニーの弔い合戦をしたかに見える。まるでジョニーの霊に憑依されたように。チャーリーのキャラクターは、3年後に『殺しの分け前/ポイント・ブランク』(67年)で幽霊のように蘇る。妻と友人に裏切られ、殺されかけた男(リー・マーヴィン)が復讐のために帰ってくる。妻の妹を演じるのはアンジー・ディッキンソンで、リー・マーヴィンが使う銃はS&Wの44マグナムである。

●『刑事マディガン』の二挺拳銃

 二挺拳銃は実際には当たらない。拳銃の照星と照門と目を一直線にして狙うことができないからだ。ジョン・ウー映画のチョウ・ユンファみたいにしても無駄に弾をバラ撒くだけだ。二挺拳銃の効果的な使い方を見せてくれた映画は少ないが、ドン・シーゲル監督の『刑事マディガン』(68年)はそのひとつだ。
『刑事マディガン』は1962年に、元ニューヨーク市警の警官だったリチャード・ドハティが書いた小説『The Commissioner(警察委員長)』の映画化。アメリカでは市警ごとに組織形態が違うが、この小説は、ニューヨーク市警の最高責任者である警察委員長を主人公にしている。
 ところがこれを脚色したエイブラハム・ポロンスキーは、現場で駆けずり回る刑事マディガンを主人公に物語を書き変え、タイトルも彼の名前に変わった。
『刑事マディガン』は金曜日から日曜日までの3日間のドラマである。
 金曜の朝。50歳を過ぎた刑事マディガン(リチャード・ウィドマーク)と相棒ロッキー・ボナーロ(ハリー・ガーディーノ)は、バーニー・ベネシュというチンピラのアパートのドアを蹴破る。ベネシュは今まで何度もマディガンたちに捕まってきた犯罪常習犯で、今回はブルックリンで起こった殺人事件の容疑者だった。ベネシュは若いコールガールとベッドに寝ていた。ここで彼女がベッドから出ると乳房がむき出しになる。これは当時、画期的なシーンだった。
 ハリウッドには1930年代からヘイズ・コードという自主規制ガイドラインがあり、同じベッドに寝る男女や、女性の乳房を見せることは禁じられていた。しかし1968年にこのコードが撤廃され、今のようなレイティング(年齢別制限)に変わったので、裸や血みどろの暴力シーンがスクリーンにいっきにあふれたのだ。
 マディガンたちは女性の裸に思わず目を奪われ、コルト45を抜いたベネシュに拳銃を奪われてしまう!
 殺人犯が刑事の拳銃を持ってマンハッタンに潜伏している。警察委員長トニー・ラッセル(ヘンリー・フォンダ)は3日以内にベネシュを見つけ出すよう、マディガンに命じる。盗まれた拳銃を探す物語といえば、黒澤明の『野良犬』(49年)があまりに有名だが、『刑事マディガン』のポイントは、拳銃よりも、マディガンとラッセルの確執にある。
 ラッセルはマディガンのことを「Iousy(薄汚い)警官だ」と言う。かつて彼はマディガンの上司だったが、「彼は私よりも立派なランチを食べていた」。
 劇中、何回かマディガンがレストランやバーで食事をするシーンがある。その度に店のオーナーは「お代は結構ですよ、マディガンさん」と言う。清廉潔白なラッセルからすると、それは賄賂のようなもので、決して許すことができない。
 原作では、マディガンは中産階級の出身で、大学も出ていることになっている。これに対してラッセルは貧困層の出身で、敬虔なカトリック。「世の中を白か黒かはっきり分けようと」し、警察官たちを厳しくコントロールする。これに対してマディガンは自由気まま。ルールよりは自分の経験や、現実の人々の人情や仁義を重んじる。時には悪とも取引する。
 ラッセルはニューヨーク市警のトップにまで出世し、グランドピアノやシャンデリアのある高級フラットに住んで、マンハッタンを見下ろして暮らす。マディガンは今もヒラ刑事として、街の暴力と格闘する「汚れ仕事」を続けている。年の離れた美しい妻だけが自慢だが、彼女はマディガンの給料の安さと狭いアパート暮らしに不満を募らせている。何よりも許せないのは、マディガンが、休日だろうと夜中だろうと、妻を家にほったらかしにして仕事に出かけていくことだ。
 原作のラッセルは、はっきりマディガンは敵だと意識している。
「マディガンは現代的な男だ。つまり、この世界に本当に信じるべきものなど何もないと思っている。そのことで、ラッセルにとってマディガンは生まれついての敵になる。なぜなら、マディガンが無意識にせよ象徴している価値観が正しいとすれば、ラッセルの仕事である“管理”には意味がないことになってしまう」
 つまり原作では、ラッセルはキリスト教的な価値観、マディガンは人間の自由意思を代表し、対立する。映画では、2人は対立しているというより、ラッセルが一方的にマディガンにプレッシャーをかけ続けるだけだが、そのラッセルも、彼が掲げている正義や善が崩れていく経験をしていく。
 ラッセルは、新人時代からの盟友である警視長官ケイン(ジェームズ・ホイットモア)が、売春の元締めを見逃している事実を知る。ケインを問い詰めると、実は警官でもある彼の息子が作った莫大な借金のためだったと認める。そして、息子を守るために辞職すると言い出す。
「正義や名誉よりも息子が大事か?」と尋ねるラッセルにケインは「あんたは何もわかってない」と言い捨てて立ち去る。世の中は白黒はっきり分けられないものだ。
 また、ラッセルは街の有力者の妻(スーザン・クラーク)と不倫関係になってしまう。マディガンもまた、美しいジャズ歌手(シェリー・ノース)に誘われて彼女のアパートに泊まるが、ネクタイしたままソファに寝てしまう。実はマディガンのほうが身持ちは固かったのだ。
 ついにベネシュはマディガンの拳銃で、パトロール中の警察官を射殺した。ベネシュはすでに自暴自棄で、一刻も早く捕まえないと危険だ。マディガンは「ベネシュは異常性欲だ」と語る。逃亡中も女を抱かずにいられない。そこで、彼に女を手配しているポン引き(ドン・ストラウド)を使って、ついに潜伏先の安ホテルをつきとめた。
 警察の狙撃班が建物を取り囲む。しかし、マディガンはロッキーと2人で突入すると言う。ラッセルは彼を止めない。自分のミスに自分で落とし前をつけさせようというのだ。スナッブノーズのリボルバーを両手に二挺持ったマディガンが弾幕を張りながら部屋に突撃。これなら二挺拳銃も有効だろう。至近距離でバリバリ撃ち合ったマディガンとベネシュは相打ちになる。マディガンは、シーゲルの『突撃隊』(62年)のスティーヴ・マックィーンや『ラスト・シューティスト』(76年)のジョン・ウェインと同じく、自分で自分のけじめをつけて壮絶に散った。
 妻ジュリアが病院に駆けつけたときにマディガンの息は絶えていた。
「どうせ、薄汚い刑事が1人死んだ、くらいにしか思ってないんでしょう!」ジュリアはラッセルに怒りをぶつける。「あんたは自分のことしか考えてない、人殺しよ!」
 ラッセルの教条的な正義は敗北する。現実は薄汚い路上にあるのだ。
『刑事マディガン』はマディガンの汚れ仕事ぶりと、ラッセルの偽善との対比が明確でないため、テーマがはっきりしないのが難点だ。シーゲルは、ルール無用の汚い正義というテーマを、アリゾナの保安官(クリント・イーストウッド)がニューヨークで犯人を追って大暴れする『マンハッタン無宿』(68年)を経て、72年の『ダーティハリー』で完成させる。その手には、44マグナムが握られていた。

ぶっ放せ!ドン・シーゲル セレクション
映画館ストレンジャーにて『殺人者たち』ほか貴重な8作品を一挙上映。『第十一号監房の暴動』『ボディ・スナッチャー/恐怖の街』『殺人捜査線』『燃える平原児』『殺人者たち』『真昼の死闘』『突破口!』『ドラブル』。
1月20日〜3月2日まで

こちらもよろしかったら 町山智浩アメリカ特電『アバター:ウェイ・オブ・ウォーター』

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