70年代を代表する伝説の自主映画『バイバイ・ラブ』が特別上映。時代を先取りしたクィアシネマの傑作が現代によみがえる

「UNDERGROUND CINEMA FESTIVAL '22」と題した特集上映イベントで、60~70年代のサイケデリックな映画の数々が上映されている。精神世界やニューエイジに関する活動で知られる映像作家・おおえまさのりが手掛けたアヴァンギャルドな実験映画群や、即興音楽集団「タージ・マハル旅行団」のドキュメンタリー、アングラ演劇の代表格「発見の会」が唯一残した映画『味覚革命論序説』などのアンダーグラウンドな映画がそろった。11月26日(土)~12月2日(金)の東京・下高井戸シネマでの上映を皮切りに、浜松、名古屋、京都と巡回。東京上映期間中の12月1日には、70年代伝説の自主映画『バイバイ・ラブ』が上映された。上映後に登壇予定だった監督の藤沢勇夫は、新型コロナウイルスに感染してしまい療養中(病院では元気に過ごしているとのこと)のために登壇中止となったが、フィルムアーキビストのとちぎあきらが登壇し、知られざる傑作の発掘経緯や70年代の自主映画が発していた”熱”について語った。

トークショーの様子。フィルムアーキビストのとちぎあきら

 1974年に公開された『バイバイ・ラブ』は、東映の東京撮影所で助監督を務めていた藤沢勇夫が東映退社後に自費で作り上げた16mmの自主映画だ(室田日出男、高月忠の東映アクター二人が声の出演として協力)。物語は、不良青年ウタマロが、女装をした美少年ギーコ(声は別人の女性が吹き替えている)と出会い、恋に落ちるところから始まる。警官から拳銃を奪い、ついには殺人まで犯した2人が刹那的な愛と暴力の逃避行を続ける様子を描いた、青春ロードムービーの傑作だ。ヌーヴェルヴァーグやアメリカン・ニューシネマの影響が色濃く感じられつつも、新しいセクシュアリティによる人間関係が提示された、クィアシネマとも呼べる、時代を先取りした映画となっている。
 本作が発掘された経緯について、東京国立近代美術館フィルムセンター(現在は国立映画アーカイブ)に勤めていた、とちぎが語る。「20年くらい前から、多くの現像所において、フィルムを管理する体力がなくなってきた」と近年のフィルム管理の現状を説明。その頃から、現像所が預け主の製作者に対し、フィルムの引き取り願いをするようになってきたという。だが、預け主が不明な場合も多く、『バイバイ・ラブ』もイマジカ(現在はIMAGICA Lab.)がフィルムを保管していたが、預け主が分からず、苦慮していたそうだ。現像所はフィルムの中身を見ること自体も預け主に許可を得る必要があるため、登録者名(個人名ではなく、いまはもう存在しない会社名の場合もある)からは連絡先を見つけるのが困難な場合も多いという。そこで、当時の東京国立近代美術館フィルムセンターに相談が持ちかけられた際、『バイバイ・ラブ』というタイトルから藤沢勇夫の監督作であることが判明。藤沢に連絡を取り、16mmの原版をフィルムセンターに寄贈することになった。その原版をフィルムセンターが復元し、今回の上映では、16mmプリントをデジタルに変換した素材が上映された。
 劇場公開当時のことについて、とちぎは「一番最初の公開はATG(アートシアターギルド)の拠点映画館、アートシアター新宿文化で、1974年の12月に公開。そのあとは劇場公開はあまりなく、ホール上映や大学の映研などの上映が多かった」と振り返る。アートシアター新宿文化では、週末のレイト上映のみで、日中は寺山修司の『田園に死す』が上映されていたというが、その裏話をとちぎが明かす。劇場側は当時、日本中の話題だった『エマニエル夫人』をかけたかったが、どうしても新宿で上映したいという寺山の熱意に動かされ(『田園に死す』には印象的な新宿のシーンがある)、上映することになったものの、結果としては不入りとなり、年明けからは『エマニエル夫人』が上映された。その頃の日本で、いかに『エマニエル夫人』が求められていたかがうかがい知れるエピソードだった。
 制作時の状況について。監督の藤沢は残念ながら登壇できなかったが、本映画祭主催エス・アイ・ジーの鈴木章浩が藤沢に伺っていた制作秘話が、鈴木によって紹介された。シナリオは当初、『歌舞伎野郎』のタイトルで、1967年頃から書き始め、当時公開された『俺たちに明日はない』のような映画を作りたかったという。男女の話としてシナリオを書き進めていたものの、藤沢はラブシーンが描けず悩んでいた。そこで男同士の話に転換してみたところ、物語が動くようになったそうだ。また、『俺たちに明日はない』のラストシーンを観た藤沢は「なんて幸せなんだろう」と感じたそうで、「自分は絶対、こういう幸せな終わり方はさせたくない」と思い、『バイバイ・ラブ』は独自の世界感を見せることになった。
 藤沢が大切にしていたのは”アマチュアリズム”だという。主役の二人に演技経験はほとんどなかった。特に女装の美少年ギーコ役の一条雅は、新宿で飲み屋のマスターをしていたそうだ。藤沢がギーコ役を求め、新宿ゴールデン街を飲み歩きながら探している中で、一条を見つけたという。不良青年ウタマロ役の田村蓮は、演出家・竹邑類の上演集団「ザ・スーパー・カムパニィ」に入りたての役者だった。カメラマンや照明もベテランではなく、東映の撮影所のようなプロたちの現場では出せない、アマチュアリズムだからこその新しい空気を取り入れたかったようだ。
 そして、話は当時の自主映画の熱について及ぶ。とちぎが70年代前半を振り返り、「都立の高校に通っていましたが、1974年や75年の学園祭ではほとんどのクラスで8mm映画を撮るんですよ。さすがに映画ばかりになっては困るということで、二年生は映画、三年生は演劇と振り分けが行われたんですけど、本当に皆、映画を撮るんです。高校生が普通に映画を撮る」と懐かしそうに語った。続けて、「その高校生たちが大学へ行き、今度は大学の映研で映画を撮る。その映画が劇場でも公開されるようになる。映研出身の映画監督たちが、日本の映画界がどん底だった時に若い力として入ってきた。インディペンデントの映画が短い間に変質していくような、そういう期間の中にあった映画の一本として、『バイバイ・ラブ』があるのかな」とコメント。さらに自主映画が目指すべき道について、一人の映画監督の名前を挙げる。「柳町光男さんが76年に『ゴッド・スピード・ユー! BLACK EMPEROR』という暴走族の映画を撮るんですけども、柳町さんは映画館でかけることを目標に掲げるんですね。当時のキネマ旬報でも勇ましい檄文を書いていて。”自主映画が公民館のような場所で自主上映をやっている限りはダメだ”と。”精神としてはメインストリームでないものを作るつもりでも、やっぱり映画館で見せるべき。映画館を自分たちがこれから占領するべきだ”というようなことを激しく言っていて」と柳町光男が自主映画にかけていた思いを紹介。
 最後に、多種多様な自主映画作家たちが戦い方を模索していた、あの頃について、「そういった何か、方向性が違うものがうじゃうじゃありながら、日本のインディペンデント映画は幅広く成熟していったんじゃないかな」と、かつての時代に思いを馳せた。【本文敬称略】
(取材・文:後藤健児)

「UNDERGROUND CINEMA FESTIVAL '22」
【上映作品】Aプログラム『おおえまさのり全作品1』
Bプログラム『おおえまさのり全作品2』
Cプログラム『ザ・タージ・マハル・トラベラーズ〜「旅」について』
Dプログラム『味覚革命論序説』+『光風』
Eプログラム『GOOD-BYE』+『スーパードキュメンタリー 前衛仙術』
Fプログラム『バイバイ・ラブ』
Gプログラム『アンダーグラウンド・イン・N.Y.』

【上映劇場】
11月26日(土)~12月2日(金):東京・下高井戸シネマ
12月3日(土)、4日(日):浜松市鴨江アートセンター
12月17日(土)~23日(金):名古屋シネマテーク
12月24日(土)、25日(日):京都文化博物館

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