本当は食べたおはぎ
今回の動画の最後に諦めたことになってるおはぎ
実はあの後に戻って、つぶあんと黒胡麻を買って食べたんです。
動画の中では飲食店などで提供されたものに対して「美味しくない」とか「まずい」という表現はしないようにしています。
そう言う時はまったく何も感想を言わないか、動画にしない、もしくは自分の好みではないというような表現をするようにしています。
ここで「本当はおはぎ食べたのに動画では出さない」というのはつまり僕の好みではなかったからなのですが、こうして文章だと抵抗感も比較的小さく済みます。
素材の動画を見直すと「おいしくないわけではないが、自分の好みではないだけだ」ということを僕が延々と語っていました。
そう丁寧に説明しようとすればするほど、なんていうか、邪魔くさい
僕の好みの問題なのだから正直に語っても問題ないと思う一方、もし自分が提供する側であればそれなりに気分が悪いと思います。
なのに、なぜ文章には書けるのでしょうか。
肉声という言葉があります。
そもそもはマイクなどの機械を通さない生の声という意味ですが、YouTube動画で語る自分の声は肉声という感覚に近いです。
自分が自分の声で言っている生々しさに「うっ」とくる嫌悪感を感じることがあります。
一方、こうして書く文章には自分の言葉であるという自覚はあるのですが、弁解の余地が大きい分安心して思ったことを表現しやすいのです。
そもそも、動画に合わせてこのnoteを書き始めることにした理由もそんなことだったような気がします。動画だけだと伝えきれないことや誤解されるようなことをテキストで補えるのではないかと思ったのでした。
「美味しくないなんて言ってないよ。好みではないと言っただけ」
文章だとちゃんと読め、って言えるんですけど、動画だと何かすごい言いづらいんです。
あとは動画の後半だということも大きいです。
動画の最後の方でネガティブな表現を使うとやっぱりどうしても気持ちが落ち着かないと思います。
でも、文章だとそういう抵抗感が少ない。
温かいお蕎麦も美味しかった。
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