未来をつくる姿勢とつなぐもの
「なにもない」
うんざりするほど聞いた呪いのような、そんな言葉。
あるときは地元の友だちから。またあるときはまちの大人たちから。
マックなどのチェーン店が。イオンのような大型商業施設が。おしゃれなカフェが。きらきらした就職先が。立ち並ぶビル群が。観光客が押し寄せるスポットが。テレビで取り上げられるような有名な店や人が。デートで遊べるところが。1分1秒を正確に刻む交通網が。自慢できるような文化や産業が。
自分の求める”何か”が。
地方とか、都会とか、そういう二項対立的な思考ではなく、
どうやら、”そこ”には「なにもない」らしいのだ。
「なにもない」言葉がつくる「なにもない」現実
もう8か月ほど前になるが、東京五輪の会場が札幌になったことに対してキー局の某番組が過剰なdisを飛ばした結果、「なにもない」という言葉で溢れた出来事があった。
新川通りにはなにもない。札幌にはなにもない。北海道にはなにもない。
そうした出来事に対して起こしたちょっとした行動が、載せたツイートにもあるような予想外の小バズとなった。
出来事が出来事なだけに、分断アレルギーキャラ(?)になってしまったので、当時は丁寧に丁寧にオブラートに包んで言っていたが、
発端となった一連の出来事を見て、内心では割とキレていた(普段は穏やかな人間です)。
「なにもない」を言葉にした”だけ”で、何が変わるのだろうか?
その言葉は、本人よりも言葉を耳にした周りの人の思考にこびりつきしっかりと離さない。そして発した本人はその事実に無自覚であることも多いように思う。
自然と、無意識に植え付けられた「ここにはなにもない」という意識が次々と伝播して、”そこ”の未来を手放し「ある」が手に入る場所を目指す人が増えていく。結果として「なにもない」状態になっていく。
「なにもない」状況をつくるのは、かくいう”あなた”ではないのか?
「なにもない」状況をつくるのは、かくいう”わたし”ではないのか?
未来をつくる姿勢がつなぐ物
話は変わるが、つい先日「.doto」という、道東のアンオフィシャルガイドブックが発売された。すべてが等身大で、かっこいい。
これを作ったドット道東という存在については、僕が語るより以下のnoteを見たほうがいいと思うので(なんなら今でもよくわかってない)、知らない方はぜひご覧ください。
道東で生きる人が表現したい道東を表現する。
その土地で生きる人たちが表現したいその土地を表現する。
当たり前のようで、しかし為されることが少なかったことにこうしたことに共感が集まり、制作のためのクラウドファンディングには398人、3,346,941円もの応援が寄せられた。
中には、自らお金を払ってまで制作に関わりたいと声を上げた人々が50名ほどいたという。
これだけの応援や共感が集まったのは、クラウドファンディングの見せ方がうまかったからというだけでも、SNSで発信をしているからというだけでもないと、2年ほどその活動を見ていて感じている。
目指す未来のため、そして自らが生きていくと決めた地域で楽しく暮らしていくために、
地道に、泥臭く、何食わぬ顔をして数時間離れている各地に出向いては丁寧にかつ大胆に関係を築き、次に次にとパスをし続けた結果なのだと思う。
「なにもない」ではなく、自らの足で点をつくり、点を探し、点を見つけ、点を繋ぐ。
彼ら流の当たり前を積み重ねた末の制作物に対する反応は見ていて心地よい。みなさん本当にすごい。
誰かの支えになっている。
誰かの帰る理由になっている。
誰かの分岐点になっている。
「クリエイティブ」なるものへの高いハードル
だが心地よさもそうだが、彼らへは引け目や嫉妬を感じることも多い。
しかし、正直に言うと、今はこのnoteを「ドット道東じゃない方」として書いている。SNSのプロフィールなんかにも、道東という言葉は載せられても、ドット道東という言葉は”まだ”載せられる気がしない。
それは、この人たちといると、引け目やジェラシーを強く感じるからである。
この人たちほど価値を生み出せていないし、タフな姿勢も持ち合わせていない。出会いや経験値が違いすぎて単純に話についていけないときがある。
それは、機会を与えてもらってばかりいる、という強い負債感があるからである。
冒頭で、『今お世話になっている「ドット道東の人たち」』という表現を使った。「お世話になっている」ばかりで、それを返せているのか、次の人に送れているのかが分からなくもなる。
同じようなことを書いていたなと思い、1年ほど前に書いたnoteを読み返してみるとやはりそうだった。
プロフィール云々はどうでもよくなったとしても、それ以外は何も変わってないぞ、当時の自分よ。
『「.doto」買ってくれたんですね!ありがとうございます!』
言うたびに、むずがゆくなる。「ありがとうございます」などと意気揚々と言えるほど関われているのかお前は?
そして、しごく自己中心的な考えであると思うのだが、こういった人は、結構な数いるのではないかと思っている。
例えば、圧倒的な実践や盛り上がりを前に、自分の小ささに腹が立つ。
例えば、自分のまちでも何かしなきゃいけないけど、理想よりもできていなくて焦る。
いつだか、「クリエイティブ」って言葉に対してハードルがあるんだよねえという話をきくちゃんともしたっけか。何か大層なものを作ることを要求されるような、されないような。
そんな感じなこと。そんな感じなひと。
未来をつくる姿勢をつなぐ者
ただここでは悲観をしているわけではない。何かをつくるということに対してハードルを高く感じたとしても、できることはきっとある。
定義は一旦置いておいて、「クリエイティブじゃない方(と思っている)」の自分でもできることとして、
誰か(のつくったもの)に対して形の見える応援をすることということ=相手の神輿をひたすら担ぐということ、は一つ大きくあるのだと思っている。
「なにもない」を言っているだけでは、自分の生活やまちの未来は変わらない。
相手への嫉妬や引け目を感じているだけでは、現実は動いてはいかない。
”いまここ”に集中することは大事であるが、”今だけ””自分だけ”を見続ける先は、まっくらだ。それぞれの事情があるのはもちろんだが、皆が皆、未来の誰かが割を食う利己的な行動を無自覚にし続けてしまっては社会が詰む。
手を動かしつくることにためらいや抵抗感があるのなら、そういう人なりの行動をする。それぞれの役割なんだろうな。
「望む未来に辿り着くために」、もしくは望まぬ未来を避けるために消去法的にでも自ら選択し、そうした未来をつくろうとする誰かの応援をする。それも相手に伝わる形で、相手の力になる形でしてみる。
望む未来に向けた意志ある選択は、そうした未来をつくる人をも、その未来に共感する人々をも、未来で生きる人々をも、そして巡り巡って自分自身をも助け、その後も助け続けるのだと思う。
「好き」な気持ちを表す姿勢がないと相手に伝わらぬように、「応援」の気持ちもきっとそうだ。
結果的に相手に伝わるかということも大事だが、相手への誠意をもって応援を”しようとしている”という姿勢の方がこの場合は大事になるのだろう。
自分なりの応援の形
今回、ガイドブックでは、浦幌を紹介するページの担当として、そして「 #道東discover 」という特集で担当の一人として、ちょこっとだけ関わらせてもらいました。それ以外にもいくつか飲み会企画ページでの賑やかしとしても登場していますので、お時間ある方探してみてください。笑
他にも、自分なりの応援の形として、ガイドブックのクラウドファンディングにて、30冊届くリターンを選んでみた。
献本も入れて16冊が手元を離れることが決まったので、残り14冊ほどあります。次に次にとつなげられたらいいなあ。購入したい人いたら教えてください。
また、引き続きBASEからも購入できるほか、店舗でも買えるところが増えてきたみたいなので、そちらもチェックしてみてください。
「道東を楽しい場所にするのは自分だ」
みんなで、楽しくしていきましょ
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