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自己を赦す、受容は「逃げ」なのか?

おいなんだよそのタイトルは。

ちがうんです、なんかこう、ほら、自分語りでなんか……イタイこと言いたいんじゃないんですけど思い浮かんじゃったからなんとなく書いていいですか。もー知らねーいいやなんか書きたいし最近note書いてないし。

さっきから「ポーン……ポーン」っておりんともちがう音鳴ってない!?物理?物理か頭の中の大人のかいよいよわからなくなってきました。

表題はぶっちゃけ

「嫌いな自分を受け入れれば幸せなのか?受け入れればそれでいいのか?それはある意味、自分で思考を放棄している逃げに過ぎないのではないか?」

なんて思い浮かんでしまったので書きました。

結論から言うと「そうでもあり、必ずしもその限りではない」と私は解釈します。いやなんでこんなこと書いてんの。書きたいからだけど。えっなんでこんなこと書いてんの……。

きっかけ

きっかけと言っても今なんですけどね。

なんか、「自分を受け入れ、自己内観や潜在意識に潜る中でインナーセルフ(あるいは本当の自分?)に出会い、自らを受け入れてから幸せになった」と、多幸感あふれるものを見ました。

これ、これそのものを否定する意図はありません。この方がそう感じているのであれば本当に喜ばしいこと。しかし、これをどこか「嘘っぱちだ。なんだよキラキラしてるスピリチュアルか。自分のことを許せるわけがないだろう」だなんて思考を、私はどこかで抱いていました。

それでは実際、その方の言っていることは「嘘っぱち」なのでしょうか。

これもまた、「そうでもあり、その限りではない」と言えるでしょう。さっきからなんだ、白黒はっきりしないけれど。でも実際そうじゃない!?

つまりは「私の身にそのことが起こるべくもない」
「私はそんなこと(=自分を許して幸せになる)は起きない」なんて思っているから、ですよね。

その人にとっては本当でも、私の身にそれが起こったら、それを信じていない私にとっては「嘘」なんです。嘘だって信じているのだから。

それならば、
「(その方にとって自己受容からの赦しは)
そう(幸せになれる)でもあるし、

(私のように自己受容からの赦しを得られると信じていない者にとっては)その限りではない」ということになります。

うんちうんち。どういうことだよ。言ってることはわかるよ。

だから「AでもありBでもある」みたいなことになる。頓知か〜〜?

「世界を認識する者はその世界に生きているものの法則に則り生きているので真実は人によって変わる」

みたいな……?しかし不変というものはなく、人々の集合意識がある法則を産むので………??

おい!もう何もわからないぜ!!!

なんかそんな感じ。なんでこれ書き出したんだろう。自動書記とかいうのでもなさそうだし。

なんか思いついちゃったから書きたくなっちゃった!言ってることわかる人いますか?わかんないや。

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