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【コラム】伊勢神宮と八幡宮~その空間の差

伊勢神宮のご祭神はアマテラスオオミカミ。

宇佐を本宮とする八幡宮のご祭神は応神天皇。

どちらも皇族に縁の神社なのに、なぜこんなに違うのだろう?

そう思ったことのある方は、神社好き&古代史好き筋には多いと思います。

この疑問の答えはただひとつ。「伊勢は聖域である」ということだと私は考えます。


自分語りを少々致しますと、私は世田谷八幡宮のすぐそばで生まれ育ちました。子供の頃の八幡様は近所の子供たちにとっては遊び場で、「公園に行ってくる」という感覚で「八幡様に行って来る」と、毎日境内を走り回っていました。

世田谷八幡宮は一風変わった八幡社で、境内に土俵があります。そこでお相撲さんごっこをしたり、弁財天の池の鯉に餌をあげたり、おにごっこやかくれんぼをしたり…広い境内を余すことなく探検し尽していました。

通っていた小学校が八幡様の敷地に建っていましたので、写生大会は八幡様の境内(近くの豪徳寺のこともありましたが)、夏のラジオ体操も校庭ではなく八幡様で行い、理科で微生物の観察をした時も先生と一緒に弁財天の池に行き、その水を使いました。

今思うと、弁財天の池で鯉が冬眠することを知り、秋にはどんぐりなどの木の実を集めるために木の種類を知り、学校の先生に世田谷八幡の由来を教わって郷土史を知り…八幡様は沢山の学びの場所でした。

以前大分で「元宇佐」と呼ばれる八幡社のひとつに参拝した際にも、境内でゲートボールを楽しむ方々がいらっしゃるのを見て懐かしさで心が和みました。

八幡様は「応神天皇を祀る社」ではなく、地元に密接した氏神様のようになっていて、公共の場のひとつになっていることが多いように思われます。


一方、伊勢神宮はというと…宇治橋・火避け橋を渡るとそこは「神域」です。お手洗いもなく、飲食も基本いたしません。

もちろん境内で遊ぶ子供も、くつろぐためのベンチもなく(休憩所はありますが)、ただただアマテラスオオミカミのご神徳に触れるための場所となっていますよね。

外宮の山には実は古墳があり、50代オーバーの皆様が子供の頃は探検スポットだったそうですが、今は立ち入り禁止となっています(植樹保護のためとか?)。

また、江戸時代頃までの内宮の宇治橋と火避け橋の間には、神官などの住む館が建っていたそうで(今の神苑がその跡地)、現在よりはもっと人間の生活に近かったようですが、火避け橋から先はやはり神域です。

つまり、伊勢神宮はいくつもの橋という境界に守られた聖域であり、人間の暮らしとは切り離されたものとして祀られているのです。まさに「神様の住む宮殿」。崇め奉る存在です。

伊勢市内はほぼ神宮の神領地で、そこに住む人々も神領民とされています。そのためか、伊勢に住む前は漠然と「伊勢の人々は神宮を氏神様のように思っているのかな」と考えていましたが、住んでみてそれぞれの町に別の氏神様がいることがわかりました。

感覚としては「神宮は神宮、氏神様は氏神様」という感じです。元々は神宮の摂末社であった社が氏神様になったところも多く、そのまま神宮の管轄外になっている神社もあります。

神宮は皇祖神=天皇家の神様、氏神様は町の人々のための神様。

そう考えられているのかと、異邦人としては観察していました。

ただし、伊勢市の神社には八幡様のようなくつろげる空間~ベンチがあっておしゃべりできたり、おやつを食べたり~はありません。これはやはり「神社は神域」の神宮スピリットが根ざしているからだと思うのです。

ついでにもうひとつ、神社が多すぎるせいか公園も少ないです。

ですから、観光で来て美味しそうなパン屋さんでついついおやつをゲットしてしまっても、宿に戻るまで食べられない…なんてこともあります。(京都なら御所で広々とベンチでいただけるのに!)

話を戻しましょう。

八幡社は全国で一番社数が多いですよね。これもやはり、八幡社が地元に根差した存在として地域に密着しやすい方針があったからではないでしょうか?

信仰は移民と共に広がります。八幡社は清和源氏が氏神として信仰が篤かったため、その武士の勢力の波及と共に広がり、その武士が土着していくことでその地域に根差して行ったのだと思います。

武士は時にはその土地を荒らしもしたかもしれませんが、守ってくれることもあったと思いますし、領地で慕われる武将の逸話も全国に残っていますよね。自分たちが敬愛した領主が愛した神社だから、土地の人々も自然と八幡様を受け入れて大事に信仰したのでしょう。

一方神宮は、伊勢出身の人が神宮信仰をその地に持ってきたこともあったとは思いますが(例;神奈川県伊勢原市の伊勢原大神宮)、八幡社のように多くはありません。

その背景には、全国で伊勢信仰を広めてまわった御師の存在が大きいと思います。

伊勢御師は伊勢のお土産を片手に伊勢の信仰を説き、伊勢神宮へと人々を誘いました。全国から伊勢神宮へと人集めをしたいのですから、武士のようにあちこちに社を建てたりはしませんよね。

その信仰の中で「伊勢神宮は唯一無二」ではなければならず、「伊勢神宮は最高の神域」でなければならなくなったのではないでしょうか?


結局のところ信仰は人が作り出しますから、八幡社も伊勢神宮もご祭神がどうこうというよりも、それぞれの都合にあった形で成長していった結果が今の姿なのですよね。

更にたくましいのは、その神社を「祈り分け」してしまう私たちのご都合主義な信仰心で、そのおかげでどの神社の信仰も受け入れることが出来、どの神社の信仰も現在まで受け継がれているのだと思います。

それも神社の思惑のうちなのかもしれませんけれど…。

実はどの時代も神職の方の中には突出した商売上手がいるものというお話かもしれませんね。

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