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【コラム】安倍さん襲撃事件を古代史好きがセンチメンタルに思いを馳せるコト

安倍晋三元総理が奈良・大和西大寺駅で襲撃され、
早くも二七日が来ようとしています。

大和西大寺駅と言えば、平城京のあった場所ですよね。
そしてその平城京遷都が決まった和銅元年(709年)に
造平城京司の長官に任命されたのが、阿部宿奈麻呂です。

阿部宿奈麻呂は阿部比羅夫の息子で、
阿部仲麻呂の伯父にあたる人です。
(諸説あり)

阿部仲麻呂といえば、遣唐使になり
「天の原ふりさけ見れば春日なる三笠の山に出し月かも」
と詠んだことで有名ですが、
この仲麻呂が唐で『金烏玉兎集』を得て吉備真備が持ち帰り仲麻呂の一族に託したのが、安倍晴明に繋がる安倍氏の陰陽道のはじまりという伝説があります。
(余談ですが、吉備真備の帰国の際に九尾の狐が同乗していた…という伝説もあるようです!)

*『金烏玉兎集』は清明が記したという説もあります。
 ただ実際には、晴明の死後、江戸初期頃までに記されたようです。

そして、安倍元首相はこの安倍晴明の血族だと言われていますね。
噂であって直接の血統ではないという話もあり、
飛鳥時代頃にようやく繋がる…という説もありますが。

ただの悲しい偶然ではありますが、
安倍元総理はご自分の御先祖が造営に携わった都のあった場所で襲撃されてしまったのです。

安倍元総理の襲撃された場所は、都の東の端の一条通りと二条坊通りの交わる辺りです。
(参考)

ここには称徳天皇が建てられた「西隆寺」という尼寺がありました。
西大寺の管轄のようでしたから、西大寺に付随する尼寺だったのでは?と思います。
ただ、鎌倉時代には荒廃し、田畑になっていたようです。

元々は藤原仲麻呂の娘婿の御楯の領地で、仲麻呂の変の後に仲麻呂の所領と共に没収されて西隆寺の所領となった記録があります(続日本紀)。
768年に没収され、西隆寺の造営司が置かれたのが767年なので
寺領に必要になって召し上げられたというよりは「あの御楯の土地使おうぜ!」というのが先にあったのでしょうね。

西大寺は東大寺と共に当時は隆盛した寺院だったと言われます。
西大寺は称徳天皇(当時は孝謙上皇)が仲麻呂の乱の先勝祈願に建てたそうですので、
西隆寺を戦勝の御礼に建てたという背景もありそうです。

国乱の平定を祈願した場所で…と思うとまたセンチメンタルな気持ちになりますね。

更に、安倍総理の亡くなられた橿原は言わずもがなの大和朝廷のはじまりの地…建国の地でもあります。

そして安倍氏は孝元天皇系列の氏族とされていて、孝元天皇の軽境原宮も橿原市見瀬町(または大軽町)とされています。

ここまででも充分な安倍氏と奈良の結びつきですが、
まだそれだけではありません。

亡くなられた病院を真直ぐ西に進むと安倍氏の氏寺である「安部文珠院」があるのです。
安倍元総理もこちらに献灯されていたり(2010年?)と安倍一族としてのご信仰があったことが伺えます。
こちらは、安倍倉梯麻呂が大化元年に建立した…と伝わりますが、
元々は300mほど離れた位置にあり、地元の方には「仲麻呂邸」と呼ばれていたそうです。

調査から建立は倉梯麻呂の頃で間違いはなく、
完成はその子の御主人では?とされています。

安倍御主人といえば…『竹取物語』で「安倍のみうし」のモデルと言われ、
火鼠の皮衣をおねだりされます。
そして唐の商人から買い求め…という話でしたね。

仲麻呂も唐に身を捧げた生涯でした。

そして安倍総理の初外遊先も中国。

前述した安倍元総理の献灯は仲麻呂の歌碑のそばに立つそうです。
中国の地で、遠い祖先に思いを馳せられることもあったのかもしれませんね。

奇しくも縁の深い奈良の地で歴史的事件に名を残してしまわれた安倍元総理。

心からご冥福をお祈りすると共に
ご尽力に改めて感謝し、御志を胸に刻みたいと思います。

📷東大寺二月堂からの夕景

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