積もる、固まる、崩れない
こんばんは。
ちょっとだけ、お久しぶりですね。
連日コロナの感染者が増える一方で、油断のできない情勢が続いていますけれど、そんな中。
私は、実家のある静岡へと帰ってきました。久々の帰省。
“地元“には
コロナの影響で、数ヶ月ずっと帰省できておらず、家族とは久々の再会でした。
とはいえ、ネットの普及している現代ですからね。
お互いにそれなりのやりとりはしていましたから、わざわざ会ってから驚くようなこともなく。
まあ、みんなそれなりに元気でよかったです。
ところで、地元に帰ってくれば、中学や高校からの友達と、会おうと思えば会えるはずなんですよね。
進学や就職で地元を離れた人は多いですけれども、離れてない人だっています。
特に高校で就職した子なら、地元にいる子が多いんじゃないんかなぁ。
でも、なんとなく、連絡を取る勇気がないんですよね。
自分が可愛いだけ、でもありますが。
病気になっただけなら、いいですよ。
けれども実際は、私自身は何も変われず、ただ病気になったんです。
私は、成長しないまま、時間が過ぎていくことを許してしまった。
帰る場所、帰りたい場所
地元って、帰りたい場所であるべきだと思うんですよ。
家族や親戚、友人、それからその人たちとの思い出。
そういうものが詰まっているからこそ、ふと、帰りたいなと思えるような場所であるべきだと、思うんです。
長い時間が経って、いつの間にか、「帰る場所」ではなくなってしまうかもしれません。
それでも。
帰れる場所ではなくなってしまったとしても。
その場所こその何か、こだわりのようなものがあるべきだと思うのです。
いつか見たアニメ(氷菓)で、「どんな道を辿っても終着点はここ」ってセリフがありました。
そこまで美しいことは言えません。現実はもっともっと非情なものですから。
そこまでではなくとも、ふらっと帰って、その空気に安心するような。
自分に馴染むような感覚、懐かしむ気持ち。
“地元“に対して、そういう気持ちが持てるべきだと思うのです。
これは、虚像なのでしょうか。
居場所があると、怖くなる
私ってとてもひねくれています。
人から与えられる評価を、素直に受け入れることができません。
特に、良い評価であればあるほど、疑わしく感じます。
どうしてそうなったのか、なんてことを今考えても、仕方のないこと。
結果として在るものは、居場所を畏怖しているということです。
居場所がある、ということは、とても良いことです。
馬鹿話して盛り上がれる場所も、自分の才を認めてくれる場所も、等しくとは言い難いですけれど、どちらも大事なことに変わりはありません。
生きていく上で、必ず何処かに居場所を持たなければなりません。
信頼関係を築き、互いを知り、尊重し合う。
そして、互いの居場所を認め合う。
居場所は、自分という人間を社会的に形成するために必要不可欠。
それを拒むということは、社会的に認識されるということを拒んでいるようなもの、なのだと思います。
何が言いたいかって。
自分自身の本懐は、誰からも忘れられることなのでは?と、思うのです。
中途半端ですが、今日はこの辺で失礼します。
もしかしたらいつか、続きを書くかもしれません。
よろしければ、サポートよろしくお願いします。 社会復帰に使う、なんて言いながら、きっと、私の人生を彩って、これからもnoteで言葉を紡ぎ続けるために使います。