2023/06/29(十五少年)

先週買った『十五少年漂流記』を読み切った。原題はDeux Ans de Vacances(二年間のヴァカンス)らしい。小学生のころ塾ですすめられて買った記憶がある。たしか講談社青い鳥文庫の訳だった気がする。あっちは少年少女向けということで少し噛み砕いた訳になっていたりするのだろうか。二年間を詰め込んでいるせいか、それともこの著者がそういうスタイルなのかわからないけど、ものすごくサバサバしている。島に漂流した少年のうちブリアンとドノバンは仲が悪かったのだが、そのふたりが命の危機を救い合うことによって絆を確かめ友情を築く、ところまではいいんだけど、ドノバンがブリアンにはじめて救われたとき、ほとんどなんのためらいもみせず「ブリアン、なんていいやつなんだ!」ときて、泣くつもりだったのに笑ってしまった。

ヴェルヌは最後の最後で「どんな小中学生もこんな旅を経験することはないだろう」と言っているのだが、子どものころ公園で秘密基地とか作って遊んでたのがすこし重なる気がする。仲間割れ的なのもあったかもしれないし、外部からの侵入者に立ち向かうために一致団結したかもしれない。あれは確かに「政治」だった。『十五少年漂流記』でも大統領が決められる。選挙で。子ども同士の関係は政治の縮図だ、とヴェルヌも書いていた。とはいえ、あれはやはりどこかで「ごっこ」なのだ。もちろん、「大人」の政治もごっこなのかもしれないが、少なくともごっこであることをあからさまにしてはいけない。子どもはそうではない。

大人になるとごっこ遊びのための場は演劇とかコスプレとかになるのかもしれない。だが、子どものころはもっと普遍的にすべてがごっこだった気がする。そのごっこであまたの子どもたちが排除されてきた。それはそう。だが、あの「なりきる」という感じの創造性は普遍的だとおもう。それを子どもながらに意識していたか、というとどうだかわからないが、「なりきろう」とおもって「なりきる」と「なりきれない」のが難しいところである。

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