わたしの音楽遍歴
音楽を意識した最初の記憶とは何だっただろうか。わたしの生まれた横須賀の実家はもうないのだが、その家にがらんとした物の置いていない6畳一間があった。そこで童謡のレコードを聴いた記憶がある。「おお牧場はみどり」「回転木馬」や「線路が続くよどこまでも」などを聴いていたし、よく歌っていたのを憶えている。レコードと子どもというのは、何か孤独な感じがする。
もう少し大きくなると特撮ものやアニメの主題歌、挿入曲を聴くようになった。「ウルトラマン」とかだ。後に音大受験のときウルトラセブンのレコーディングに参加していたトロンボーンの先生に習ったが、とんでもなく恐ろしい先生だった。その先生の弟子はどの学年もトップだったのだが。
小学校5年で合唱団に少し入ったりしたが、とても音楽的環境とは言えない境遇だった。家にピアノはあり、姉が習っていたが、自分が習うとは想像もしなかった。一度レッスンに連れていかれたが、泣きながら帰って拒否したのを憶えている。男子はピアノなど習わないものといった昭和の小都市の子どもの世界の掟がそう感じさせたのか。何か屈辱的なものを感じた。
それでも中学に入るとブラスバンドに入った。これは小学校のころから決めていた。運動ができないので消去法というところもあるが、横須賀市の催しで團伊玖磨の組曲「横須賀」のコンサートの別枠で合唱で参加し、オーケストラというものを間近で見たのがきっかけだろう。スライドの伸び縮と大きさが気に入ってトロンボーンを選んだ。
中2で音大進学を決意するのだが、いろいろ伏線がある。その起点となっているのはドヴォルザークの交響曲第9番「新世界より」である。この4楽章の編曲をブラスバンド部で演奏したが、この曲のことは宮澤賢治の童話『銀河鉄道の夜』を読み、そこに引用されていたのを憶えていた。それからカラヤン指揮ベルリンフィルの自由の女神が夕陽に浮かび上がっているジャケットのレコードを購入し、何度も聴いた。わたしはへたな合奏をしながら、これらについて考えていた。銀河鉄道の夜に出てきたインディアンが疾走する風景を思い浮かべて2楽章を聴いた。わたしはこれを境にクラシック音楽が好きになり、チャイコフスキーの悲愴やホルストの惑星、ムソルグスキーの展覧会の絵など、名曲を聞き始めた。ラジオも聴いていたがチャイコフスキーの「テンペスト」などあまり演奏されない曲で強い印象を受けたものもあった。
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